『ヴァギナビーンズ症候群』
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朝食は一人分にしておこうか、二人分作ろうか、彼女は冷蔵庫の中身を確かめながら考えていた。
料理は姉ほど得意ではないけれど、そこはまあ、美食家の舌を唸らせてやろうなどと野望を掲げているわけでもなく、花嫁候補からあぶれない程度には腕を磨いているつもりだった。
夕べは結局、夜の二十二時頃まで三上明徳と一緒にごはんを食べたりして過ごし、アパートに帰ってきた時刻が二十二時半。
姉の琴美はとっくに帰宅していてもおかしくない時間だったが、部屋に人のいる気配はなかった。
橘千佳は安堵したい気分でソファに座ったが、何の連絡もなしに夜遅くまで帰らない姉を心配して、琴美の携帯電話にかけてみた。
コール音はするものの、結局姉は電話には出なかったのだ。
こういうことは以前にもあったし、その時も確か勤務先の同僚らと飲みに行っていて、下戸の自分が真っ先に酔いつぶれてしまい、友人の家に泊めてもらったと言っていた。
おそらく今回もそのパターンの可能性が高いだろうと、千佳はそこから先を考えないことにしたのだった。
そうして窓の外が白けてきた時分に、ようやく琴美は帰宅する。二階の自室に入る気配があって、しばらく物音も聞こえていたが、下に降りて来ることはなかったようだ。
姉はそのまま眠ってしまったのだろうと思うことにして、眠り足りない千佳は二度寝した。
お腹が空いて目覚めてみれば、昨日の今日、日曜日のお昼前というわけだ。
千佳は二人分の朝食を作ることにした。いや、正確には昼食だろう。
耳からイヤホンをぶら下げたままフライパンを振っていたせいで、姉が起きてきたことにも気付かないでいる。
「おはよう」
妹の耳からイヤホンをはずしたそこに、琴美はしゃきしゃきとした声を吹きかける。
「あんもう、おどかさないでよ」と肩をすくめる千佳もすぐに笑顔になり、おはよう、と姉に返す。
「ごはん、二人分つくったから。食べるよね?」
「サンキュ」
「お姉ちゃんさあ、昨日は会社の人たちと飲んでたの?」
「ああ……ごめん、電話に出られなくて」
「お母さんの言葉を借りれば、いちおう嫁入り前の大事な体なんだから、夜遊びとかして体こわさないようにしてよね。それでなくてもお酒に弱いんだから」
琴美は冷蔵庫から野菜ジュースのペットボトルを出しながら、うん、と返事した。
そんなことは言われなくてもわかっている。けれども誰にも言えない事情があるのだ。どうにもならない大人の事情が。
「千佳の方はどうだったの。まさか明徳さんのおかげで、結婚願望くすぐられちゃったとか?」
「そんなわけないじゃん。普通だよ、ふつう」
千佳は自分で言っておいて、会話が成立していないことに気がついた。
それでも琴美から指摘の言葉を浴びるわけでもなく、それどころか姉は半ば上の空のままで、皿の上のハムエッグを口に運んでいく。
二人が二人とも、お互いの白々しさに気づきながらも、プライバシーの共有を押し付ける気はまったくなかった。
たった一夜のうちに愚かな秘密をもってしまった、そのことがずっと頭の中にこびり付いて、姉妹のあいだに垣根をつくっていたのだ。
色香豊富な琴美と千佳それぞれが自ら招いた、皮肉な出来事だったのかもしれない。
*
それから毎週土曜日になると琴美は決まって取材に出掛けるようになり、そのおかげで千佳と三上明徳は彼女に気兼ねなく密会を重ねることができた。
挙式の日取りが迫っているということもあり、その打ち合わせには明徳と、かならず千佳が顔を出さなければならなくなっていた。
式場のスタッフにしても、明徳に付き添ってくるのが毎回新婦の妹だからだろうか、新郎の本命はこちらではないかという疑いの目を向けてくる者も少なくなかった。
それでも千佳の居心地は良くなるばかりで、明徳と交際している気分を逆撫でされるたびに、寝取ったときのあの快感を思い出すのである。
絶頂のウェディングベルが鳴り響いて、祝福の歓声が上がる。人の輪の中心には三上明徳がいて、その隣では彼にもっともふさわしい女性が満面の笑みで手を振っている。
千佳はそんな妄想に浸っている自分が可愛いくて仕方がない。この幸運に甘え、より深い関係になるために女の財産を使い果たそうと、そう思っていた。
*
橘琴美の記事がフリーペーパーの巻頭ページを飾ると、洋菓子店『シュペリエル』は以前にも増して、もてはやされるようになった。
店舗の外観やスタッフの顔写真などのレイアウトにしても、女性ならではの感性が生きた、目にも可愛いものに仕上がっている。
そしてもう一つ、スイーツ特集の最後のページをめくれば、画家である河原崎郡司の貴重な作品を収めたカラーページがつづく。
個展を開けば絵が売れる。官能的なものもあれば、動植物を扱った自然の営みをダイナミックに描いたりもする、カリスマ性を備えた人物なのだ。
そんな彼に見初められた琴美自身は、いったいどんな思いで河原崎郡司のアトリエに通い続けているのだろうか。
ただの仕事の一部だと割り切っているのなら、取材が一段落した時点で速やかに身を引くべきだったのだ。
それをわざわざ自ら出向いて被写体を志願する姿勢は、なにかに取り憑かれているとしか言いようがない。
彼女が初めて河原崎家を訪れた激しい雨の日、彼の手によって犯されはしなかったものの、琴美の心は確かに折れていた。
鬼才な画家の前ですべてを剥き出しにして、狂ったように自分自身を慰めていた。
そんな琴美の姿に欲情した郡司は、キャンバスに向かって射精するみたいに絵筆を振るい、ディルドに座る乙女を描写しつづけたのだった。
*
『ヴァギナビーンズ症候群』
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