『ヴァギナビーンズ症候群』
9
烏龍茶が入ったグラスの中で、四角い氷がからからと鳴った。
「こういうところのドリンクって、けっこう高いんですね」
ダブルベッドに腰掛けて素足を振りながら、橘千佳はサイドテーブルにグラスを置いた。
「それは想定内だけど、きみとこうなることは想定外だったよ」
「嘘ばっかり」
三上明徳の適当な発言に、千佳はカウンターを放ってみせた。
彼女は二度目のシャワーを浴びたあとだった。二人がラブホテルに入ってから、すでに二時間弱が経過している。外が明るいのか暗いのかもわからない。
「琴美は何時に帰宅するんだろう」
「たしか、夕方には帰るって言ってましたけど」
「それじゃあ、あと少ししか一緒にいられないな」
その言葉に千佳はあからさまにしょんぼりした。もっと明徳と一緒にいたいのだ。
「ごめん、ちょっと電話してみるよ」と片目をつぶって、明徳は携帯電話を手に部屋の隅へ移動した。とうぜん千佳は面白くない。
現在に至るまでに自分がどれだけの覚悟をしてきたのか、彼には想像もつかないだろう──。
──個室の前で「帰る」「帰らない」の押し問答を繰り返し、結果的に折れたのは明徳の方だった。
部屋に入ってからも、しばらくはムードづくりに苦闘する明徳の背中を、千佳はただ見つめているだけだった。
そうして浴室で熱いシャワーに打たれているうちに、千佳はあることに気づく。
私の好きな彼はいまの彼ではなく、姉のことを思っているときの彼なのだ。振り向いてほしいけど、姉のことも大切にしていてほしい。矛盾しているようで、じつはこれこそが理想の三角関係ではないのか、と。
千佳と入れ違いで明徳もシャワーを浴び、備え付けのバスローブを着けた二人は、やや距離をおいてベッドサイドに座る。
いかにも女の子が喜びそうな部屋の内装は、千佳には少々面倒臭く感じた。
しかしそれでも明徳は千佳に手を出そうとはせず、「今日はお互い疲れただろうから、少し眠ろうか」と吐息をつき、寝そべってからまた息を吐いた。
「三上さん」
婚約者の妹に名前を呼ばれ、うん?と明徳は返答する。
「お姉ちゃんのこと、愛していますか?」
「急にどうしたんだい?」
「答えてください」
冗談を言える空気ではなかった。
「僕は琴美のことを愛している。もしそうじゃなかったら、結婚なんかできるわけないだろう」
それが聞けて安心した、千佳の笑みにはそんな思いが含まれていた。
「私は三上さんのことが好きです。でもそれとおなじくらい、お姉ちゃんのことも好きなんです。だからもし三上さんが私のことを思ってくれていて、たとえばこの後にどうにかなったとしても……あ、たとえばの話ですよ。それでもお姉ちゃんだけは、一生しあわせにしてあげて欲しいんです。勝手なことばかり言って、すみません」
そこまで言って睫毛を下ろすと、乱れた呼吸を整えるように千佳は胸を撫で下ろした。
微かに震えるその肩に、明徳がやさしく手を添える。
「大丈夫だよ。僕にはきみのお姉さんを不幸にさせない自信がある。だけどこれじゃあフェアじゃない。だから僕にも勝手なことを言わせてくれないか?」
彼の声がする方へ千佳は正面を向ける。神経質でも無神経でもない、信頼できる男の顔がこちらを見返していた。
「こんな気持ちは初めてなんだ。同時にふたりの女性を好きになるなんて、ただの無責任男だと思ってくれてもかまわない。けどさ、やっぱり僕はきみを諦められない。琴美をしあわせにして、千佳ちゃんもしあわせにしたいんだ。どちらも愛している」
涙を溜めた千佳の下瞼は少し赤らんでいて、それがどんな種類の涙であるかを彼は考えた。
けれども、最後に言おうと決めていた言葉は変更しなかった。
「きみが好きだ」
その瞬間、千佳の肩から緊張が抜けて、我慢していたものが両目からこぼれ落ちた。
そこからの記憶は断片的で、時には曖昧に、時には明確な快感を千佳に教えてくれていた。
明徳と千佳はベッドの上で互いの肌をむさぼり合い、どれだけ愛しているかを囁き、性器を繋げてひとつになった。
千佳の髪や体からはエチケットの匂いがして、セックスをしているあいだ中ずっと明徳を誘惑しつづけた。
彼は彼で、男らしく鍛えられた筋肉に汗を浮かせ、濃密なキスから乳房へ、乳房から女性器へと、千佳の全身をじっくりたっぷり舐めた。
挿入のリズムも相性が良かった。正常位で見つめ合ったまま腰を屈折させるから、どうすれば男の人は射精しやすいのか、女の子はどこがいちばん感じやすいのかが、それぞれの表情から読み取れてしまう。
「きみは……こんなときにも……はあ……、どうしてそんなに……きれいで……いられるんだ……うっ……」
「三上……さあ……ん……、わたし……うう……わたし……い……ひ……いく……」
「きみが……すきだ……、もう……どこにも……きみを……」
「ああ……いい……い……く……、ああいく……いく……」
千佳の声、千佳の膣、千佳の愛液、愛しいものをすべて手に入れた明徳はとうとう、婚前の儀式を彼女の中で果たした。
千佳は失禁したみたいに身震いして、ヴァギナとクリトリスをびゅくびゅくと痙攣させた。
彼の精液を受け止められた快感と、絶頂まで導いてくれた感動、そして、セックスに対する誤解を解いてくれたことへの感謝が、千佳の中でかけがえのないものへと変わっていく。
出会ったばかりの頃は、もっとプラトニックな関係を想像していたはずだったのに、こうやって彼の体にすがるように肉体を重ねてみて、つまらないことにこだわっていた自分とようやく決別できたような気がした──。
──電話を終えて、明徳は千佳のとなりに座りなおした。
「どうやら琴美はまだ仕事中みたいだ。電話に出る暇もないらしい。留守電を残しておいたから、少しぐらいなら遅く帰っても大丈夫だろう」
「何て言ったんですか?」
「僕らのことに付き合わせてしまったから、千佳ちゃんに夕食をご馳走する、ってね」
「でも……」
姉の目を盗んでこんなことをしている自分は、なんて最低な妹なのだろうかと、千佳はほんの一瞬だけ自虐的にかぶりを振った。
「僕は後悔していないよ。それどころか、今日一日で千佳ちゃんのことがもっと好きになった」
そうして彼女の額にやさしくキスをする。
しだいに明徳の体温に包まれていく感覚の中で、千佳の心はふたたび燃え上がりはじめていた。
彼の指はすでに千佳の恥部をなぞっているし、ピンク色の乳頭を口にふくんで転がしてもいる。
「ふうん……」
歯の隙間から漏れる吐息が興奮を助長させる。それはもうただ抱かれるだけでは満たされないほどに、彼女の膣の深海部分を疼かせて止まなかった。
薄暗い照明の中を見渡してみると、さっきまでは気付かなかったものがいろいろと見えてくる。それもそのはずだった。さっきは明徳とのセックスに夢中になりすぎて、彼以外は何ひとつ目に映らなかったのだから。
若干の余裕から生まれた好奇心が、千佳の視線をそこに向かわせたのかもしれない。
「あれ……、何ですか?」
ベッドの上で彼女は尋ねた。明徳もおなじ方向を向く。
今日二度目のセックスを中断し、その他のアメニティにはいっさい手を触れず、二人してそれを確かめに行く。
「気になるの?」
彼の問いに対して、千佳は無言で首を横に振る。
ふたりの目の前にはアダルトグッズの販売機があった。
はにかんだ表情でそれらを眺める彼女に、明徳はもう一度ささやく。
「使ってみようか?」
それでも千佳の反応はおなじで、しかしその視線は目の前の一点から離れない。
可愛いやつだ、明徳はそう思った。
世の中の夫婦がどれだけセックスレスになったとしても、同性と過ごす時間を優先させる若い男女がどれだけ増えたとしても、こういうジャンルの需要はなかなか落ちないものだ。
そのほとんどは女性がひとりで楽しむための機能を備えているはずなのに、ビジュアルやクオリティーは一貫して男性目線である。
そのうちのひとつを手に取り、コードの先から垂れ下がったプラスチックカプセルを振り子みたいに揺らす彼女は、出会った頃よりも大人びた顔で微笑んでいる。
女心とはいったいどこにあるのか、千佳の裸を見ながら明徳はふとそんなことを思った。
「あ、動いた」
はじめて触るおもちゃに興味を示しながら、ローターの振動をマシュマロほっぺに押し当てる千佳。
「ううん、気持ちいいかも」
積極的にローターを操るその様子に、明徳の股間は痛いくらいに盛り上がる。
強姦してでも射精してしまわないと、正気を取り戻せる自信もなかった。
「千佳ちゃん──」
彼女に寝技をかけようとベッドに押し倒す。傍らにはローター以外の玩具も投げてある。それらをどう使おうと、誰に処罰されるわけでもないのだ。
彼女の両手を背後で組ませ、そこに手錠をかけて逮捕しておく。アイマスクも忘れてはいけない。
そして安産型に見えるその骨盤を背中側から抱きしめて、背すじを撫でまわすように男性器を突き付けた。
「少しでも抵抗すれば、この弾丸がきみの子宮に穴を開けるだろう」
役者になったつもりで、明徳は千佳に絶対服従を約束させる。
女は頷き、男が陵辱を仄めかす。
彼女が彼を背負う恰好で、二人だけの密かなプレイがはじまった。
『ヴァギナビーンズ症候群』
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