『ヴァギナビーンズ症候群』
7
ただでは済まないだろうなという予感は的中した。
思わぬタイミングでありつけた昼食に空腹を満たしたことなど、今となっては記憶の片隅にすらない。
河原崎郡司のアトリエの隣室で、橘琴美はそわそわと着替えをしていた。着衣という着衣をすべて脱ぎ、裸の上から白いクロスを纏う。
せめて脱いだものだけでも綺麗にたたんで、学生時代に華道で学んだ所作を忠実に再現してみた。
かしこまったところで状況が良いほうに転がるわけでもないけれど、そうでもしないと琴美は自分を見失いそうになっていたのだ。
今なら、目の前に煙草を見つけたら手を出してしまうだろうし、蒸留酒や果実酒だって口にしてしまうだろう。
もちろん煙草は吸わないし、アルコールも得意じゃない琴美である。
彼女をここまで追い詰めているものは、河原崎郡司という画家の才能を買ってしまった彼女自身にもあった。
琴美はドアノブをまわし、長いクロスを引きずりながら郡司の待つアトリエへと戻った。彼はやはりそこにいた。
「きみには被写体になってもらう」
ついさっき、郡司の口から繰り出された言葉がそれだった。しかも、どんな指示にも従順で万能なモデルでなくてはならない。
それにはさすがに琴美も抵抗を示したが、体には指一本触れないという条件付きで、郡司の作品の一部になることを承諾させられたのだ。
「さあ、そこに立って、わたしの意欲を刺激してくれ」
郡司は目配せだけで被写体の立ち位置を示し、琴美はその小さな台座に上がった。
そこには真っ赤なクロスが波打つように敷いてあり、婦女の素足をやさしく受け止めている。
白と赤、ふたつのクロスは風もないのにふうわりと揺れ、次の瞬間には裸婦の足元で折り重なっていた。郡司の目の前で、琴美が全身を露出したのだ。
「もはや澱(おり)も濁りも見当たらん。どうやら、わたしの性欲を肥やしてくれそうだ」
琴美の白い肌を見るなり、年配の画家は嬉しそうに喉を鳴らした。
薄い皮膚に被われた若い肉体、女性ホルモンがつくり上げた脂肪、どこからともなく分泌される甘酸っぱい匂い。
男にはないものを全部持っている生き物、男を悦ばせるために生まれてきた性、琴美はまさにそれだと郡司は思った。
「こんな老いぼれの男に肌を見られておいて、恥ずかしくはないのかね?」
琴美の口はかたく閉ざされたまま動かない。
「まあいい。わたしの指示通りに動いてくれれば乱暴はせんよ」
郡司の視線は、琴美の乳房と股間の毛並みのあいだとを往復している。
「そこに座って、股をひらきなさい」
言われたとおり琴美はゆっくりと腰を下ろし、両手をうしろについて、脂肪の乗った太ももを左右にひらいていった。
羞恥に堪える琴美の吐息が声帯をふるわせると、はあっあ……、と官能を疑わせる声が出た。
膝を立ててもまだ長い脚の付け根には、色素に染まりきらない唇がひとつ。その内側にも、紅梅色をした揃いの唇がのぞいている。
「これを描いても良いのだな?」
郡司が琴美の局部に言葉をかける。
「気の済むまで……、私を描いてください……」
そう言ってなぜだか、自分のしていることに興奮してしまいそうになる琴美。郡司の視線を感じるほどに、下半身が蒸し蒸しと熱くなってくる。
「わたしの筆はまだ迷っておるのだ。この筆を濡らすのが、きみの役目なのだよ」
彼が私に求めているのは、卑猥で陰湿な言葉だ。それを言ったら私は今度こそ、体の奥から醜いものを垂らしてしまうかもしれない。
琴美は言葉を選ぼうとした。けれども、選択肢と呼べるだけの言葉は浮かんでこなかった。
「どう描いて欲しい?」
迫る郡司に、いよいよ琴美が告げる。
「ありのままの私を描いてください。等身大の乳房を、女性器のクリトリスと陰唇を。河原崎さんが望むなら膣や子宮、体液の一滴まで……、ああ……それから……ああ……」
「それから、どうした?」
琴美の様子が変なことに気づき、郡司はさらに注意深く観察してみた。
するとどうだろう。妊婦が産気づいたような顔を見せたかと思うと、ミルクレープの隙間から甘いシロップが垂れるみたいに、琴美の操(みさお)が膣汁を滴らせているのだ。
ひとすじ、ふたすじ、とろみをつけた愛液らしきものが、郡司の肉眼をさらに見開かせる。
「頼んでもいないのに、勝手な真似をされては困る」
「ああ……すみません。これはその……、私の不注意で」
「きみ自身で拭いなさい」
琴美は不謹慎だと思いながらも、はい、と弱々しく頷き、右手の中指を伸ばして硬直させた。
その指先を見つめてから腰のくびれに這わせ、腹部から下腹部へ、そして陰唇の皮膚を撫でていく。
これではまるでオナニーしているみたいだ。女にも早漏体質があって、だから自分はこんなにも濡れやすく、そのたびに男の人の誤解を招く。はやくこの汚れものを拭ってしまいたいのに、拭いたあとからまた温かい水分が吹き出してくる。もうこのまま気持ち良くなってしまうかもしれない。
琴美の指はいそがしく動きまわり、濡れた割れ目を指先ですくっては撫で、惨めな白い糸をだらりと引かせる。
口をひらけば、上下の唇のあいだにも唾液が糸を引いていた。それを舌で振り切り、唇の粘膜を舐め、飽きもせずにまた唾をためる。
荒い鼻息が聞こえる。その方向に琴美が目をやると、いつのまにかキャンバスと向かい合う郡司の姿がそこにあった。一心不乱の形相で、下絵のデッサンに熱を込めている。
ふむ、ふむ、という彼の呼吸に熱意を感じて、琴美の行為はしだいにエスカレートしていった。
はあ……はあ……、んっうっんっ……、はあ……あ……ああ……。
それは声に出さないように鼻から抜いた、女の弱音に聞こえただろう。
琴美はクリトリスをもてあそび、さらに掴みどころのない感触を求め、膣口の面にそって指を円くすべらせる。
彼女の脳はすでに気持ち良くなっていた。
ねち……ねち……ねちゃ……みちゃ……、ねちねち……くちょ……ねちょ……。
音だけ聴けばただの水遊び。しかし琴美はもう大人の女性だ。指を入れたくて仕方がない、そんな指使いで水たまりの浅いところをかき混ぜてやれば、これはやばいとふたたび弱音を漏らす。
赤いクロスに染みができると、そこだけが黒く変色した。
「かわらざき……せんせい……」
懇願する思いで琴美は声をかけてみた。もう大人しくしていられる自信がなかったからだ。
しかし郡司はなにも言わない。ひたすら筆を走らせ、目の前の官能的な光景を偽りなく描きつづける。
この美しい造形が年老いていく未来を想像すれば、いまこの瞬間を描いて永遠のものにしてしまいたかった。
それが河原崎郡司という男であり、橘琴美もまた彼によって新たな魅力を開花させられた女であった。
女性器の深いところにまで挿入される視線に、見透かされ、せつなくて、歯痒い。
「せんせい……あっ……、こんなに……汚して……すみません……。もう……どうしたらいいのか……はっ……」
被写体は意思を持ってはならない、そう自分に言い聞かせる琴美だったが、性欲にくすぐられたスキーン腺からは、三十六度五分の粘液が活発に分泌されつづけている。ただ体中が熱くて、平熱かどうかもわからなかった。
膣だけがヒステリックに濡れている。
「いいよ、それでいい。娼婦でもなければ、ポルノ女優でもない。きみという人物を演出するのは、誰でもないきみ自身なのだ」
郡司のこの会心の言葉が、琴美の迷いを払拭した。迷い指が誘い指になり、やがて愛撫はべっとりとした手触りに変わる。
ハスキーな吐息を何度となくこぼし、もうここにはビジネスは存在しないのだと、おさまるところへ指をおさめていった。
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『ヴァギナビーンズ症候群』
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