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絶頂まであと数秒だと思ったとき、出海医師のあやつる機器が不吉な電子アラーム音を発した。
故障……でもなさそうだ。耳障りな音だが、いまの私は快楽の真っただ中で首すじを伸ばし、血管という血管を青く浮き上がらせていた。
あたまの隅で鳴り続けるアラームが耳の穴を不快にさせた瞬間、快楽物質のミストが体中で吹き荒れた。
もう瞼を開けておける自信がない。上りきったのか落ちていったのかも自覚できない感覚の中で、電子アラームだけがずっと同じ音を刻んでいる。
せっかく気持ち良くなれたというのに、音が気になって余韻が楽しめない。音の出どころはどこだろう。
私は瞼を上げるのと同時に寝返りを打って、目に映ったその光景に戸惑いを隠せなかった。
気がつけば私はベッドの上でよだれを垂らしていた。
相当寝相がわるかったらしく、掛け布団はありえない方向にすべり落ちている。
体をほとんど動かさずに目覚まし時計の電子アラームを止めてみて、私はようやく夢から覚めた。
そう、さっきまでの出来事はぜんぶ夢。
低血圧な目つきで起床すると、寝室では思いもよらない事態が起きていた。
可愛げのないベッドに、流行音痴なシーツ。女性の部屋には不釣り合いに見えるカーテンと、風水を無視した家具の配置。
それはまあいいとして、もっと残念なことがあったわけで。
またやっちゃったよ……。
私は自分の股間あたりを二度見した。パジャマが濡れている。
ここには私ひとりしかいないはずだから、当然私の仕業だろう。
生理日でもなければ、夜尿症による汚れでもない。
消去法でいけば、私の愛液だということは明らかだった。
夢の中で体験した出来事が私を興奮させて、眠っているあいだに発情してしまった結果がこれだ。
言い訳もできないくらいの恥ずかしい染みが、シーツに地図を描いていた。
さすがにコロンブスもびっくり……するわけがない。ぜったいあいつのせいだ。
思い出したくもない人物の顔を辿りながら、私はバスルームを目指した。
そもそも知り合って三ヶ月で、「奈保子とずっと一緒にいたいんだ、僕と結婚してくれ」と言われた時点で気づくべきだった。
その言葉を信じて籍を入れた途端に彼の性格が変わり、残業があるからと朝帰りをしては、いやらしい香水の匂いを家庭に持ち込むような人だった。
私の知らないところで不特定多数の女の子と会っていたのだ。携帯電話の履歴を堂々と残してあるのがまた憎たらしい。
セックスにも不満があった。セーラー服を着ろだの、裸にエプロンだの、挙げ句の果てには深夜のアダルトショップに私を連れ出し、犯されてもおかしくない状況の中で男性客の視姦を浴びせられたのだ。
彼とのあいだに子どももいなかったし、離婚を決意するのに時間はかからなかった。
私にバツがひとつついた。離婚歴のある女性にはマイナスイメージがついてまわるのが相場だが、マイナス結構。過去は忘れて前向きな人生を取り戻し、ふたたび女を咲かせることにした。
シャワーの水圧を押し返す肌の弾力をたしかめながら、下腹部の汚れをぬめぬめと洗い流した。わるい男運もいっしょに流れてしまえばいいのに。
だけど何だろう、どんな夢を見ていたのかまったく思い出せないというのは。彼と離婚してからこっち、何度かおなじ夢を見ているはずなのに、目が覚めるといつも記憶に雲がかかってぐずついている。
だからといって寝不足になるでもなく、何から何まですっきりとした気分で朝から絶好調なのだ。
性に奥手な私がここまで派手に濡らしているということは、そうとうリアルな夢を見ていたに違いないわけで。
それならそれで、思い出さないほうがいい夢だってあるんだから、この件についてはあまり深く追求しないでおこう。
軽くシャワーだけで済ませて、私はバスルームを出た。
昇ったばかりの太陽がベランダから射し込んで、部屋の内装を白くぼかしていた。
空腹のまま深呼吸をすれば、しびれを切らした胃袋が催促の合図を出す。
ベーコンをカリカリになるまで焼いて、卵の目玉は半熟、厚切りのバタートースト、それからミルクたっぷりのカフェオレをテーブルに配置した。
携帯電話には留守電が二件入っていた。勤務先からと、友人からだった。どちらも大した用ではなかったので、朝の貴重な時間を身支度に費やすことに専念した。
テレビから流れてくるデイリーニュースを耳に詰め込みながら、鏡の前では勝負の顔が出来上がっていく。
五歳は若返った……かな。
しぜんと口角が上向きになる。
そして私は裸にエプロンではなく、セーラー服でもない、普通に大人の女性が好む格好をしてマンションを出た。
勤務先までは車で20分ほどの距離だが、あいにく愛車は点検中なので、今日のところは電車で移動するしかなさそうだ。
静電気でスカートが脚にまとわり付くのを省けば、駅まではスムーズに辿り着けたと言える。
季節の変わり目ということもあり、冬服と春服の入り混じった人波が改札を出入りしていて、私は少し気後れしながらも早足でホームを目指した。
あいかわらず、すごい人ね……。
サラリーマンとOLと学生、その三種類の人しかいないと思える光景。
そのほとんどが携帯電話に気を取られ、そこにしか生き甲斐がないという表情で画面から目を離さないでいる。
電車が到着してようやく顔を上げたと思ったら、マナーはどこかへ置き去りにされ、またそれぞれの世界に引きこもる。
私はどこか納得のいかない気持ちのまま、混雑した車両へと吸い込まれていった。
「扉が閉まります、ご注意ください」
蚊の鳴くようなアナウンスをなんとか聴き終えると、さっそく女子学生やOLらの談笑が細々と聞こえてくる。こんな場所でもやはり男性よりも女性の方が口がよく動く。
流行性のウイルス対策なのか、マスクをしている人の姿も何人かいるようだ。
そういえば──、と例の夢に『マスク』が関係しているような直感をおぼえた。
でもそれがいったい何のヒントになるのかも今はわからない。わかっていることと言えば、それは私が下着を濡らしてしまうほどの淫らな夢だということくらいか。
変な性病でなければいいのだけど、それを確かめる為に病院で受診するのもなんだか恥ずかしい。
月経だって毎月きているし、危険な性交や不衛生な自慰もやった覚えがない。
電車に揺られながらそんなことを考えていたら、不意に後ろから私のお尻に触れるものを感じた。
「……」
体に緊張がはしって、おどおどと振り返ってみると、そこには座席の手すりがあった。ろくに身動きもできないこの状況だ、痴漢を疑ってもおかしくないほど人と人とが密着している。
性犯罪は他人事ではないのだから、そのへんは日頃から過剰に意識しておかなければいけない。
不快な感触を消すために、私はお尻をかるく手で払った。
ヒールの高い靴ほど電車の揺れには不利だ。足を踏ん張るたびに、ふくらはぎがぱつんぱつんに張っているのがわかる。
今日はスニーカーにしておくべきだったと反省していると、私の目線にひとりの女子高生の顔が見えた。どこにでもいる普通の女子高生だ。どうだろうか、私の位置からだと二、三人を挟んだ向こう側だからかなり近い距離だけど、人の肩と肩のあいだから顔が見えたり、たまに制服が確認できる程度だ。
どうして私は彼女が気になったのか、それは彼女の様子に原因があった。
色白で肌荒れの跡もない可愛らしい顔には、余裕がないといった表情が浮かんでいたのだ。
言い方を変えれば、貧血とか生理痛で立っていられない様子にも見える。
この年頃は色々と体調のバランスが不安定なのだ。私が体を支えてやりたいけど、次の駅に着くまではそれもかなわないだろう。
平成生まれの女の子らしい標準顔を赤らめて、体温の変調に呼吸も整わないでいるのか、ピンク色の唇を半開きにさせている様子がなんとも辛そうだ。
まわりの人は彼女には無関心な素振りで、さらには電車の揺れに合わせて彼女に体当たりをする始末。
どこまで自己中なのだろうか、女子高生の右の彼も、左の彼も、どさくさにまぎれて的な態度で彼女の体に触れては離れ、そしてまた触れる。
その時、私は『まさか』の事態を想定した。
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