LAST
するとどうだろう。開けっ放しの病室のドアの向こうから人影があらわれ、スマートな身のこなしで私たちにこう言う。
「やっぱりここにいたのか、父さん」
いずみ記念病院の医師であり、出海森仁の息子、出海陽真その人だった。
森仁はとっさに私を突き放し、この有り様を「なんでもない」と言った。
しかし陽真は詰め寄る。
「医師の免許もないくせに、父さんはまだこんなことをしているのか!」
医師の免許がないとは、聞き捨てならない言葉だった。陽真はさらにつづけた。
「想定外の医療ミスだったかもしれないけどさ、それが原因で医学会から追放されて、どうしてホームレスなんかしてるんだよ!いったい誰の背中を見て俺が育ったと思ってるんだよ、ちくしょう!」
やるせない思いが森仁の表情に滲み出ていた。もう私をレイプする気力も失せたようだった。
そして私はようやくわかった。出海森仁がなぜ私の夢の中でホームレスの姿をしていたのかが。
「愛紗美にまでこんなことをしておいて、恥ずかしいと思わないのか?」
「もういいよ、お兄ちゃん。あたしなら大丈夫だから」
「愛紗美に謝れよ」
「いいってば」
兄と妹と父親それぞれが言い終えたあと、森仁がもう一度口をひらいてぼそりと呟いた。
「すまない……、愛紗美」
許したいけど許せない部分がある、そんな複雑な思いが彼女には漂っていた。
「すみません、小村奈保子さん。見るつもりはなかったんです」
そう言って陽真医師は全裸の私にシーツをかけてくれた。
私が礼を述べると、彼の業務用モバイルフォンに着信があった。
「はい出海……、ええ……、そうですか、わかりました」
彼は真剣な目をさらにきりりと引き締め、父親に告げた。
「父さん、佐倉麻衣さんの陣痛がはじまったみたいだ。言っておくけど、正真正銘父さんの子だからな」
まさか、と森仁はその可能性を思い起こしているようだった。
「出産に立ち会わないなら、今度こそ許さないからな、父さん」
「パパ……」
兄妹ふたりして父親の後押しをする。そこには、切っても切れない家族の絆があるのだと思った。
身なりを正した森仁は父親の顔を取り戻し、振り返りもせずに病室を出て行った。
陽真も一度病室の外に出て、それから私と愛紗美ちゃんが着替えを終えた頃にドアをノックして中に入ってきた。
「小村さんにはなんと言ってお詫びすればいいのか。父が失礼なことをしたようで、僕が代弁して謝罪します。すみませんでした」
彼の態度は気持ちいいほどに私に伝わってきた。
訊きたいことがあるのだと、私は彼に質問してみた。
「僕がお答えできる範囲であれば伺います」
「不妊治療のアプリのことなんですけど」
「ああ、『ヘラクレス』のことですね」
「はい」
「あれは元々僕が所属する学会チームがあたためていたものなのです。ですから今回父があなたに使用したアプリは、父が勝手に書き換えた偽物なわけでして。これも重ねてお詫びします」
「そんなものがあるんですか。それで私の体は今どんな状態にあるのでしょうか?」
「父が使用したアプリはおそらく、催眠だとか洗脳の類のものかと思われます。後遺症はしばらく残りますが、実生活に支障はない程度だと思っていただいてかまいません。つまり、今まで通りの綺麗な奈保子さんのままだということを、僕が保証します」
「それはどうも──」
彼の優しさに触れて、私は赤面した。
「お兄ちゃん、ひょっとして奈保子さんが好きなんだ?」
妹の方が口を挟む。
「素敵な女性だとは思うが、既婚者だしな」
兄の方は私に好印象を抱いているらしい。スルーし難い話題を私はスルーした。
そして話は『いずみ記念病院』のロゴマークについても語られた。
四つ葉のクローバーに秘められた意味。それには父親、母親、長男、長女の四人が集って、医療の未来をクリーンにするという思いが込められているらしい。
両親が離婚して母親とは離れ離れになったが、看護師の佐倉麻衣さんのお腹には父親との子どもがいて、賑やかな家庭がもうすぐ戻ってくるということだった。
「ところで、あらためて不妊治療のお話をさせていただきますが──」
若い医師は手を前で組み、姿勢を伸ばした。
「体外受精という選択肢もありますが、いかがですか?」
「はい……え?ということは、私の卵子は受精できるってことですか?」
「不妊治療が実を結びました。おめでとうございます、小村さん。あなたの体はいつでも妊娠できる準備ができていますよ」
そうなのだ。私の卵子はかなり弱っていて、精子と結びつくことが難しいと診断されていた。
でも彼らのアプリ治療のおかげで卵子が再活性化し、自然妊娠はむずかしいものの、体外受精した受精卵をふたたび子宮にもどしてあげれば、私は晴れて母親になれるということだった。
女性であることを尊重された喜びと、今まで積み重ねてきた治療の副作用を思い出し、私はまた涙した。
「余談になりますが、精子バンクに保管されている精子は『冬眠状態』と呼び、また卵子の場合は『春眠状態』と言います。我々医師のあいだでしか通用しない隠語のようなものですが、なかなか良い表現だとは思いませんか?」
彼の口調には女性の緊張を解く何かが含まれていて、涙腺の弱くなった私はもうハンカチが手放せなくなっていた。
今ではまったく使われなくなった病棟の一室に幽閉され、レイプ同然の忌まわしい不妊治療を受けたことも、忙しい日々の中でいつか風化していくことだろう。
退院を見届ける病院スタッフの前で重ね重ね腰を折り、私は華々しい気分で春の陽気の中を歩き出す。
「おかえり、奈保子」
木の枝の恒(ひさし)の下、萌えるような新緑を傘にかぶった彼がそこにいた。
「ただいま、篤史さん」
恋しい思いを募らせた私は、車椅子の彼のもとへと駆け寄る。
ありふれた出会いから恋愛を成就させ、あの日、お互いの未来を約束した直後に私たちは事故に遭った。
私は無傷で済んだけれど、彼の方は下半身不随になってしまい、同時に生殖能力も失った。
しかし彼はこうして生きている。
それからこれも奇跡的な事実だが、事故に遭う前に彼は精子を採取されていて、それは今も精子バンクで冬眠しているのだった。
だからこそ私は不妊治療を望み、賭けて、あたらしい生命を育んでいこうと決心できたのだ。
「なんだか今でも信じられない気分だけど、あなたの言うとおり、もっと早いうちに不妊治療を始めていれば良かった。だって私、こんなにも幸せなんだもん」
あの夢のはじまりで私自身が言った台詞を、今度はなんの疑いもなく彼に報告できていた。
私は思った。これが夢なら覚めないで、と。
ふと、道端の雑草の中に四つ葉のクローバーがあるのを見つけた。
するとどこからか赤いてんとう虫がやって来て、迷わずその葉にとまった。
それはあの病院で出会った四人の面影と重なり、姿なき産声を私に聞かせた。
きっと、かけがえのない命が産まれたという、虫の知らせだったのかもしれない。
おわり
※元投稿はこちら >>