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車は順調に目的地へと向かっていた。ナビゲーションの音声に従い、見慣れない景色が目に入るようになってくると、辺境の地にでも旅に出てきたような錯覚が胸に迫ってくる。
開放的で風光明媚な県道がつづく。おなじ背丈の立ち木の間をいくつも通り過ぎ、木陰が開けた先に大きな空が見えた。
日光を遮るものは何もない。峠から見下ろすその町は、和製アニメのワンシーンをそのまま切り取ったような情緒と、西洋の世界遺産を思わせる風情を私に見せていた。
目的地までの距離をナビゲーションが告げた。
ああ、あれがそうね。
赤レンガの外壁は町の景観に溶け込みながらも、自分は特別な存在なのだと、その聖域の鎧で弱者を護っているようにも見える。
車を降りて緊急搬入口あたりから建物を見上げたとき、何度目かのデジャヴュに遭遇した。
やっぱりどこかで、この角度から四つ葉のクローバーのシンボルマークを私は見ている。そして私はそれを赤十字と見間違えていたのだ。
さっきからずっと子宮が疼いているのも、この病院と私が過去になんらかの関係を持っていたからだ。
正面玄関から自動ドアをくぐって足を踏み入れた途端、私を迎えてくれたのはたくさんの好奇の目だった。
何か珍しいものでも見るような目つきでもあり、うっとり見惚れて心ここに在らずといった様子でもある。
私は自分の身なりを確かめた。服が汚れていたり、下着が見えていることもなさそうだ。
それでも彼らは私の動作に合わせて、ほとんど目だけで追ってくる。
総合受付で手続きを済ませた後も、私の全身には彼らの視線がびっしりとつきまとっていた。
その日の私の服装はというと、上はしっかりしたスプリングコートに、下は少しゆったり目のショートパンツといったスタイルだ。
確かに病院にいれば浮いてしまう格好だが、自分的には年相応のコーディネートにしたつもりだった。
「こちらへどうぞ」
若い女性看護師はファイルを胸に抱え、柔らかい動作で私を案内してくれた。
「どうかあまり緊張なさらないように」
歩きながら彼女が言う。
「あの、診てくれる先生は女性ですか、男性ですか?」
「男の先生ですよ。けど安心してください。とってもすごい方で、海外とか色んな分野にも人脈をもっているエリートですから」
そうなんだ、と何となく納得した私。どんな職業でも上には上がいる。どれだけすごいかなんて、私にはまったく未知の世界だ。
でも彼女の言うとおりの医師だとしたら、私はなんて幸運なのだろうか。
「こちらでしばらくお待ちください」と産婦人科の待合いを彼女は手で示し、空いている椅子のひとつに私は腰掛けた。
病院というところは居心地がわるくてあたりまえだが、ここに来るとその体感温度はさらに私を萎縮させた。
見れば私のほかにも数人の女性が、それぞれの悩みを抱えた表情で座っていた。
私と歳の離れた若い女の子もいれば、可愛い産着にくるまった赤ちゃんを抱いた同世代の女性もいる。
どんな目的で来たにせよ、この扉の向こうでは皆おなじ格好になるのだ。
どんなにすました顔をした女性でも、する事をされればそれなりの反応をしてしまうのだから。
その時、自分の体の思わぬ部分に血が集まっていくのがわかった。熱くなるというのか、意識過剰になって触りたい衝動に駆られる。
不謹慎な感情がすぐそこまで来ていたのだ。
「小村さん、小村奈保子さん、1番にお入りください」
自分の名前を呼ばれたのに、すぐには動くことができなかった。心のどこかでまだ他人事のように思えて、しかも独特なアウェイの空気に孤独を感じたからだ。
私は緊張した呼吸をできるだけ整えた。そして諦めを瞳に浮かべ、けして開けてはならないその四角いドアを、私は開けてしまった。
「そこは鬼門だよ」
どこからか声が聞こえた──ような気がした。それはつまり、風水で言うところの鬼門のことを指しているのだろうか。
しかし声の主はどこにもいない。いま私の目の前にいるのは、ひとりの若い男性医師と、こちらもまた若く見える女性看護師だ。
女性の方はお腹のふくらみが目立ち、おそらく妊娠の何週目かに入っているのだろう。
二人に面識はない。それなのに、それなのにだ。どうも初対面という感じがしない。
男性医師は出海と名乗り、女性看護師は佐倉と名乗った。胸のネームカードにはそれぞれ出海陽真(いずみはるま)、佐倉麻衣(さくらまい)と書いてある。
「よろしくお願いします」と私は会釈しながらも、この不可思議な出会いを必然のように思いはじめていた。
「それでは小村さん、先に検体を預からせていただきますね」
さりげなく上品な仕草で看護師は言った。
事前に知らされていた検体はぜんぶで三つ。
ひとつは今朝の分の尿。これは専用の容器に入れて持参した。
ひとつは排卵日のおりもの。これは付属のおりものシートに付着させて、ビニールパックに入れてきた。
それともうひとつ、バルトリン腺液やスキーン腺液と呼ばれる体液、いわゆる愛液だ。これもまた付属のタンポン状の物を膣に挿入し、任意の回数だけ出し入れをして体液を付着させる。
その三つを漏れなく準備し、私は彼女に手渡した。
そうして出海医師による問診がはじまり、生理痛や排卵痛の有無、程度、頻度、周期、そのほか当たり障りのない質問がいくつか続いた。
看護師は彼の横で私の受け答えを聞きながら、問診票をチェックするペン先を目で追う。
そして時折私と目が合うと、マスクをふかふかさせながら目を細めて微笑む。それはとても純粋で、嫌みのない眼差しだった。
「そうしたら上着と、下はぜんぶ脱いで、ベッドに横になってください」
やはりそれは避けられないなと思いつつも、こういう時にはなかなか決心がつかないものだ。
医師としては見慣れたものかもしれないけれど、女性器には変わりない。観察されたり触られたり指摘されれば、泣いてしまう女性だっているくらいだ。私はどうだろう。
「恥ずかしいですか?」
上着は脱いだものの、その先がなかなか行動に移せないでいる私を見かねて、看護師が声をかけてきた。
「いいえ、大丈夫です」
ぜんぜん大丈夫じゃないくせに、ついそんなことを言ってしまう私。
もう、なるようにしかならないんだから、小村奈保子、女を見せるのよ!
私は自分自身を激励した。そしてようやくショートパンツのウエストに指をかけると、まるい体型に沿ってスルリと下ろしていった。
先生の視線が気になるけど、なるべく気にしないように、でもやっぱり気になってしまう。
戸惑う手つきで下着を下ろしていく姿は、まさにこれからセックスをしようとしている女の恥じらいに似たものを錯覚させていたに違いない。
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