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結局私は彼女から夢の話のつづきを聞くこともできなくなり、後ろ髪を引かれる思いで仕事先へと足を向かわせた。
もやもやしたものを抱えたまま店に着くと、店長の名見静香さんがちょうど鉢植えのチューリップを店先にレイアウトしているところだった。
「おはようございます」
「小村さん、おはよう。通勤も電車になると大変でしょう?」
「いいえ、慣れればどうってことないです。それに車、今日には点検が終わるはずなので」
「それはそれでいいとして、例のホームレスの彼には会ったの?」
「まだですけど、また今日も来るんですかね、お店に」
「どうかしら、普通のお客さんなら有り難いんだけれど、なんだか、ねえ」
彼の風貌の悪さが、名見静香さんの表情から推測できた。
そういえば、と名見さんは何かを思い出した。
「その人が昨日ここに来た時に、独り言で何か言っていたのを聞いたわ」
「なんですか?」
「確か──」
いちばん美しい花があると聞いてここに来たが、どうやら嘘ではなさそうだ。しかし、土はよく肥えているのに、肝心の種子が見あたらないというのは、持ち腐れに等しい。もったいない──。
そう言っていたらしい。
「どういう意味なんでしょうか」
「さあ……、お店にクレームを言っているわけでもなさそうだったし、だけどあんまり歓迎できないわね」
仕事に支障が生じるといけないということで、その話はさっさと切り上げることにした。
その日、ホームレスらしき人物はとうとう現れなかった。
愛紗美ちゃんとも今朝の一件から連絡をとっていない。
一日の仕事を終えた私は二日ぶりに愛車との対面を果たし、微妙な機嫌のままマンションに帰宅した。
あれから彼女はどうしているのか、私がもっと大人の態度で接していれば傷つけずに済んだのか、そんなことばかり考えていた。
車のキーケースを靴箱の上に置くと、今日届いた郵便物をまとめてリビングのテーブルに散らかした。
結婚した友人からの手紙、カードの明細、それとB4サイズほどの大きな封書が珍しく届いていた。
見ればどこかの病院からの通知らしい。おもてには可愛らしいシンボルマークが中央にあって、それは緑色の四つ葉のクローバーによく似ていた。
はてな、と私は首をかしげた。以前にもどこかで、これと同じものを見たような気がする。
私はいまデジャヴュに遭遇している、そう感じた。
曖昧が曖昧でなくなるとき、それは確信に変わるのだ。そしてそこに書かれた文字を目で追ってみて、私は確信した。
「いずみ記念病院院長、出海森仁」
知らないはずのこの病院の名前を、私は知っている。けれども無理矢理思い出そうとすればするほど、骨盤のあたりがしくしくと疼いてくるのだった。
お腹に手をあてたまま、しばらくその文字を眺めていた。そして中身を確認する。
近頃メディアで頻繁に取り沙汰されている婦人病のことや、少子高齢化社会はもう未来の話ではないということ、それに女性らしい一生涯を送る為の医療のあり方などなど、とても興味深い内容がそこには書かれていた。
それらに軽く目を通した後、私は別紙のうちの一枚を広げてみた。
婦人科検診の受診票、それだった。
別れた夫、風間篤史とのあいだに子どもをつくらなかったので、産婦人科にはほとんど縁のない生活をしていた私。いや、つくらなかったのではなく、つくれなかったのだ。
おそらく夫婦のどちらかに不妊の原因があって、私たちが離婚したいちばんの理由はそこにあったのだから。
しかしこうやって社会での女性の役割をあらためて突き付けられると、もう30だからと年齢のせいにしている場合ではないなと思いはじめていた。
種子があれば花は咲く。子孫を残すための種子ではなく、綺麗な花を咲かせるための種子があってもいい。
不妊症だからといってセックスを避けていたら、女を諦めるのとおなじだ。
その夜、私は久しぶりにオナニーをした。とてもしたい気分だった。
頼れるものは指しかないのかと考えて、避妊具があることを思い出し、とたんに私の脳は快楽物質の泉となった。
なんでもいい、とにかく膣を満たしたい。
適当なものが目に入るとそれに避妊具を被せ、女の本音が溢れ出したそこに挿入していく。
「ん……はっ、あぁ……」
ねちねちした声が自分の耳をくすぐる。
それこそ場所も素材も選ばず、キッチンでは人妻のひとり遊びを妄想し、ベッドルームでは会社の上司と密会する新入社員の叶わぬ恋とセックスをイメージしたり。
素足、素手、素顔、素肌、そして素股。全身が性感帯であり、性欲のかたまりだった。
私はずっとこんなオナニーがしたかった。男の人が想像するよりもっとアブノーマルで、レイプされるより狂暴な快感をくれるオナニー。
これっきりにするから、だから、これだけはやっておきたいの。
そうして私は、おそらく夢の中で経験していたであろう行為を、自らの手で仕上げていく。
右手の5本の指先で陰唇を掻き分けて、深呼吸をしながら膣に挿入していった。
この感覚、私はどこかで味わっている。脳が……、イキそう……。
指さえ入ってしまえば、あとはもう関節を詰め込んだらいいだけだ。
じゅぷっちゅぷ……くちゅっ、にちゃにちゃ……、ちゃぷっ。
「はうっ」呼吸を止めて、「んふぅ」また息を吐く。
一人暮らしの女性の部屋でこんな格好を見たら、私をどんな女だと思うだろうか。私の右手首の先は今、完全に膣内へ入ってしまった。
その異様すぎる光景は私をさらに興奮させ、体が割れるような異物感が子宮に襲いかかる。
入り口は狭くても奥の方は広いつくりになっていて、ちょっとやそっとじゃ抜けない仕組みだ。
どろどろした熱い粘膜の中で拳を動かせば、臨界点まではあっという間だった。
絶頂の言葉を言う間もなく、私は果てた。
女として最低で最高な自慰行為。私の性欲が消滅しないかぎり、それはいつまでも続いた。
*
「それじゃあ静香さん、私そろそろ行かないといけないので」
「あとのことは気にしないで、終わったらまた連絡ちょうだい」
私は午前の仕事を途中で抜け出して、婦人科検診のために『いずみ記念病院』へ向かおうというところだった。
そこへ突然、何の前ぶれもなく彼がお店に現れたのだ。もう二度と顔を合わせることもないだろうと思っていたのに、彼は私の機嫌をとるような笑みを浮かべて、「やあ」と手を上げた。
風間篤史、私のもと夫である。
数年ぶりに会う彼はどこか垢抜けた感じがして、以前よりもこけ落ちた頬やウエストも引き締まり、見違えた。
人目を避けて店の裏手にまわり、彼は立ち話をはじめた。
「まだこの店で働いていたんだ?」
「うん……。急にどうしたの、あなたがこんな所に来るなんて」
「仕事の邪魔しちゃってごめん。じつは奈保子に話しておきたいことがあって、まあ、今更どの面下げてって思うだろうけど」
「話ならあの日に終わったはずでしょう」
「違うんだ、落ち着いて話すから、落ち着いて聞いてくれ」
彼の真剣な眼差しに、ある種の決意が見えた。
「僕らが別れたいちばんの原因は、やっぱり僕の方にあったんだ」
「それはだからあなたの浮気癖のせいだって、私がそう言ったじゃない」
「それはわかっている。だけど僕が浮気にはしってしまったのは、僕自身の体に原因があったんだ。それを調べてくれるようにと、僕は病院で検査を受けたことがある」
「病院……?」
「うん……、精液検査だよ」
彼が言わんとしていることはすぐに理解できた。
「精子が……ないのね?」
私の問いかけに彼は黙って頷いた。
「あれはまだ奈保子と離婚する前の話だ──」と遠い昔話を懐かしむように彼は語り出した。
二人がまだ新婚だった頃、性に奥手だった私を気遣った彼は、どうにか私に目覚めて欲しくて、不器用なりにもあの手この手を尽くしていたのだった。
セーラー服も、裸にエプロンも、深夜のアダルトショップに連れ回したのも、すべて私の為だったらしい。
初めこそ私も遠慮したりしていたのに、いつの間にか楽しんでいた部分もなくはなかった。彼の色に染められたというのか、新しい自分を発掘できた喜びを分かち合ったりもした。
そうして女の部分を満たされた私は、今度は子どもが欲しいと彼に言う。
二人の共同作業がはじまった。私の排卵日を予測し、それに合わせて彼は禁欲する。
男の禁欲がどれほど大変だったか、と彼は大げさに苦笑いした。
そんなの知らない、と私は冷たく返す。
「だけどなかなか子どもができなくて、そんな時にインターネットで不妊症のことを調べてみたんだ」
「それで私に内緒で、ひとりで病院に行ったのね?」
「陰性の方に賭けてはいたんだが、先生にはっきり言われたよ。さすがにショック大きかったな……」
情けない思いが込み上げてきたのか、彼は斜め上の空を見上げた。
そんなことがあったとは知らずにいた私は、彼にどんな言葉をかければ良いのかわからない。
ずっと隠しておけば良かったのに、何故いまになって話す気になったのかもわからない。もう一度私とやり直したいと思ったのだろうか。
「無精子だと診断されて自棄(やけ)になったとはいえ、僕がそれを理由に浮気をしたことは事実だ。奈保子には迷惑をかけたし、いろんなことを清算してきたよ」
「なによ勝手に、それで私があなたのことを許すと──」
「思っていないよ。僕に教えて欲しいことがあるんだ」
彼は私の両肩を引き寄せて、真っ直ぐにこう言った。
「奈保子はどうして追われているんだ?」
「え……?」
身に覚えのない話だった。
「きみのことを捜しているという人物が、僕のところを訪ねてきたんだ。何故あんな連中が奈保子を探しているんだ?」
「あんな連中って?」
「ホームレスだよ」
まただ。どうやら私は、相当ホームレスのおじさま達に気に入られたようだ。勤務先に現れ、自宅にも現れ、別れた彼の前にも現れている。
私に接触しようと思えばできるはずなのに、何だか私と距離を置いて私生活を観察しているようにも思える。
いったい誰が、何のために、何をしたいのか。
「いざとなったら警察に相談するから。心配してくれてありがとう」
「ほんとうに知らないんだな?」
「うん。まあ、会ったら会ったで、私にどんな用があるのか問い詰めてやるから」
「相変わらずだな」
「相変わらずよ」
不意に懐かしい笑みがこぼれそうになって、お腹がくすぐったくなった。
「元気そうで安心したよ」
「あなたもね」
じゃあ、と言って振り返った彼はどこか名残惜しそうで、積もる話の半分も言い切れていないのだと、その背中が語っていた。
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