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清楚な制服姿で携帯電話を片手に、デリケートな表情でこちらに近づいてきたのは、女子高生の愛紗美ちゃんだった。
「どうして出てくれないの?」
そう言ったのは愛紗美ちゃんだ。
「え、なに、出る?」
「どうしてケータイに出てくれないの?奈保子さん」
どうやら彼女は私に電話に出るように言っているみたいだ。
「ここは病院よ、ケータイの電源はオフにしておきなさい。私なら、ほら……、あれ……?」
私は自分の携帯電話を探してみたが、おかしなことにどこにも見当たらない。
「はやく出てってば」
愛紗美ちゃんは語気を強めて私に詰め寄る。
彼女の手の中の携帯電話は着信音を鳴らしつづけている。
見覚えのあるストラップとデコレーション、私の探し物は彼女が握っているそれだった。
「それ、私の──」
私は携帯電話を受け取り、そして彼女はもう一台の携帯電話をポケットから取り出して自分の耳にあてた。
私は通話キーを押す。それなのに着信音が止む気配はまったくない。
もう一度キーを押してみる。もう一度……、もう一度……。
手応えがない。
「私のケータイ壊れちゃったみたいだから、直接話してよ」
「だめだよ奈保子さん、ちゃんと電話に出なきゃ」
「どうしてよ、目の前にいるのにケータイ必要?」
「まだ気づいてないんだね。いま見えている私も、そこにいる看護師さんも、この病院だって全部が全部夢なんだよ」
私はリアクションできなかった。このまま彼女の冗談に乗ってあげたほうがいいのだろうか。
「はやく起きないと、また仕事に遅れちゃうよ。それにベッドのシーツだって、ほら」
そう言った彼女はちょこんと顎でベッドを指し、私は視線を下に落とした。
まさかが起こっていた。ついさっきシャワーを浴びて着替えたばかりなのに、パジャマはお尻のあたりまでびしょ濡れで、シーツに至っては言い訳できないくらいの染みがふやけて広がっていた。
「なによこれ、もう」と掛け布団を蹴飛ばそうとした瞬間──私は魔法が解けたように夢から目覚めた。
天井が見える。街の喧騒が聞こえる。それから携帯電話の着信メロディーが聞こえる。
まだなにもしない。眠っているあいだに夢を見ていたはずなのに、どんな夢を見ていたのか思い出せない。
でも下半身に感じる湿り気から、どんな内容の夢だったのかはだいたい見当がつく。
あの時とおなじ、ひどい生理痛から解放されたような晴れた気分と、膣に感じる「夢の続き」。
なにかしらのアクションを起こさなければいけない、先ずはそこからだ。
枕元で鳴り続ける携帯電話に手をのばし、とりあえず出てみた。
「もしもし……」
「おはよう、あたし、愛紗美」
まだ朝の7時過ぎだというのに、やたらハイテンションな声が返ってきた。
「どこの愛紗美ちゃんかしら」
「国民的美少女の愛紗美に決まってるじゃん、とぼけちゃってるんだから」
「はいはい。で、その愛紗美ちゃんがこんな朝早くに何の用?」
「今ね、うちの高校でけっこう流行ってるんだ」
「ソーシャルゲームとかそういうの?」
「インフルエンザ」
ああ、そっちね、と私はため息をついた。
「なんか学年閉鎖になっちゃったから、あたし暇なんだ、今日」
「大人はいそがしいの」
「奈保子さん、いま起きたばっかりでしょう?そうだろうと思ってあたしが起こしてあげたんだから、これ貸しね」
当たっているだけに何も言い返せない。
「いちおう借りておくけど、今日はほんとうに仕事だから、ね?」
「じゃあ、面白いこと教えてあげる」
「間に合ってるから」
「夢の中に奈保子さんが出てきたんだ。それで何してたと思う?」
「なに?」
「……、大きな病院で不妊治療してた。……でもあれはたぶん治療なんかじゃなくて、……レイプされてるみたいだった。あたしはそこで研修生として見聞してたんだけど、あんな卑怯な場面を見せられて、いったい何を学べっていうんだか」
彼女が言っていることは、彼女が見た夢の中での出来事であって、私には関係のない話なのだ。
それなのに私は聞き流すことができなかった。
まるで私自身も彼女とおなじ夢を見ていたような、しかもつい最近の夢だという気がする。
思い出せそうで思い出せない、頭の中は便秘状態だ。
「それで私はどうなったの?」
「つづきは会ってから話してあげる」
そう来ると思った。
「わかった。とにかく仕事は休めないから、また後で連絡する、それでいい?」
ありがとう、と電話口であからさまに喜んでみせて、無邪気に笑う彼女の声もいっそう飛び跳ねて聞こえた。
私は昨日と同じ時刻の電車に乗り、ラッシュアワーの洗礼を受けながらも涼しい顔だけはキープさせていた。
いい女がいるじゃないか、どんな味がするのか摘み食いしてみたいものだな、と声なき声が聞こえてきそうないやらしい視線。
メールを打つふりをして、じつは携帯電話のカメラで盗撮しようと狙いをさだめるレンズ。
そうやって妄想レイプのターゲットにされようとも、私はべつに痛くも痒くもない。
現行犯を目撃した瞬間には容赦はしない、ただそれだけだ。
そんな心配をよそに、電車は何事もなく目的の駅に私をとどけてくれた。
外の空気のおいしさ、香る風、朝霞の陽光、趣(おもむき)のある駅舎、ここで温かいコーヒーでもてなされたりしたら、それはもう至福の──。
「はい、これ」
はい?
その声に振り返る私。足もとのローファーから見上げていくと、目の前の少女は缶コーヒーを袖つかみで差し出し、してやったりの満面の笑顔でそこにいた。
「愛紗美ちゃん、どうやってここまで来たの?」
「パパに送ってもらった」
即答だった。駅を出れば名見静香さんの花屋までは徒歩で10分ほどの距離だ。
私は愛紗美ちゃんを連れて踏切をひとつ超えたあたりで、さっきからずっと気になっていた匂いの正体に思い当たった。
これはティーン特有の柑橘類に似た甘酸っぱい香り。
それに花や果物のフルーティーな芳香も持ち合わせている。
自分で国民的美少女と言うだけあって、その言葉に矛盾はないなと思ってしまうほどの『売れ顔』である。
「彼氏はいないの?」
彼女に恋バナを持ちかけてみた。
「うち、パパが色々とうるさいんだ。門限とか交友関係とか、とにかく私が不良にならないようにいつも干渉されてるの。だから彼氏はいない……っていうかつくれない」
「そうなんだ。けど、好きな人はいるでしょう?」
「どうかな、同年代の男子はなよなよしてるっていうか、全然ときめかないし。それにあたし、パパのこと好きなんだ。お小遣いくれるし、男らしいし」
「それってパパが好きなんじゃなくて、お小遣いが好きってことじゃないの?」
「あたしもよくわかんない。ただ、パパの言うことを聞いてあげれば、お小遣いいっぱいくれるんだ」
「パパの言うことって……、それどういうの?」
嫌な予感がした。
「ママがいなくなってからのパパ、ほんとうに寂しそうだったんだ。だから私、一度きりのつもりで、パパとそういうことしたの」
そういうこととは、つまり、ああいうことだろう。父親と娘のあいだに生まれた歪んだ愛情。
それが世間に認めてもらえないタブーだからこそ、余計に燃え上がって切るに切れなくなったのか。
普通の女子高生がなんともない顔で言えるセリフではないことを、彼女はわかっているのだろうか。
私には理解できない。
「愛紗美ちゃんはそれでいいの?」
私はつい熱っぽく彼女の肩を掴んでいた。
「何が?」
「あなたのした事がどれだけ汚らわしい行為なのか、わかっているのかって聞いてんの」
しだいに彼女の頬が紅潮していくのがわかった。鼻の穴がひくひくと動いて、今にも感情が溢れ出してしまいそうになるのを必死で抑えている。
「だって……」
涙目が黒く潤んでいる。
「パパがかわいそうだったんだもん……。あたしだって……、したくてしたわけじゃないんだから……、それくらいわかってよ……。ずっと誰にも言えないで……、ひとりで悩んでたあたしの気持ち……、少しはわかってよ」
胸に突き刺さる告白だった。軽々しく同情するのも躊躇(ためら)われた。
さっきまで晴天だと思っていた空が、その数分後にははげしい雨に変わっている。
そんなふうに思春期の乙女心は人間環境に左右されやすく、彼女の場合、人生そのものを大きく左右させる出来事に違いないのだ。
何とかしてあげたいのに何もできないでいる私の制止を振り払い、彼女は長い黒髪に向かい風をまとわせて走り去って行った。
圧倒的無力、それが現実だった。
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