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今朝の遅れを取り戻すつもりでサクサクと仕事をこなし、気がつけばペース配分もそっちのけで、夕方には一日分の全労働力を使い果たしてしまっていた。
脚のむくみに悩まされながら帰途につく三十路女、ついでにバツイチ。
帰る場所は『家庭』ではなく、ただの『家』なのだ。
「ただいま……」
誰に言うでもなく、玄関先でぽつりとそう呟いた。
「おかえり……」
「……?」
なかなかドアの閉まる音が聞こえない背後から、誰かの声が聞こえたような気がした。耳に焦げ付くような男の声。
まさか、何者かにずっと後をつけられていたのだろうか。
私がそちらに顔を向けて確かめようとした瞬間、疲労のピークに達していた私の体はいとも簡単に重力に押しつぶされ、強烈な眠気の中に意識を連れて行かれるのだった。
景色がだんだんと微睡(まどろ)んでいく。睡魔に吸い込まれてどこまでも落ちて、沈んで、安らかな気持ち良さに抱きしめられたまま、深い穴の底にようやく手がとどいた。
ここが意識の底。
すると今度は閉じた瞼の裏で明かりが灯るのがわかった。それは私のすぐそばで眩しく光って、こちらにおいでと手招きしているように見えた。
いくつもの光のすじが降り注ぎ、私の体を突き抜けて屈折したり、あちこちで乱反射をくり返す。
光の粒子をつかまえようと手を伸ばすと、そこはもう見たこともない世界がひろがる空間につながっていた。
いや、微かに見覚えがある。そうだ、なんとなく思い出してきた。ここは確か──。
「おはようございます、小村奈保子さん」
私はベッドの上で仰向けに寝かされたままで、天井しか見えない視界の外に女性の声を聞いた。
朦朧とする頭を持ち上げて体を起こすと、そこに彼女の姿があった。
「佐倉……麻衣さん?」
紅茶色の長い髪をルーズに結んで純白のナーススーツに身を包み、身ごもったお腹をほっこりと膨らませているのは、看護師の佐倉麻衣さんに間違いなかった。
「よく眠れたみたいですね。麻酔の量が少し多かったみたいだから、先生に相談して調整をさせていただきますね」
「あの……、私……、家に帰ってドアを開けたら、後ろから誰かに襲われたような……」
「あら、わるい夢でも見ていたのかしら。小村さんは昨日からずっとこの病院で治療を受けていたじゃないですか」
「治療……?」
「出海先生に不妊治療をしてもらえるなんて、小村さんの妊娠はもう保障されたようなものですよ」
その医師の名を聞いて、私はようやくすべてを思い出した。
あの時、恋人の風間篤史(かざまあつし)さんと電話で話していたら急に陣痛がきて、その場で破水してしまった私が救急車で運び込まれてきたのがこの病院。
そしていよいよ出産の時を迎えようという時に、じつは私の妊娠が想像妊娠であると告知され、それは私が望んだ不妊治療の過程のうちであると言うのだ。
その後もなにかと理由をつけては淫らな治療を続け、産婦人科医療の前進には私の協力が必要なのだと、不可解なレディス・アプリケーションの実験台にされてしまった。
それによって得られたものは、女性にとって最も屈辱的な快感、いわゆるオーガズムの暴力でしかなかった。
「あの……、ほかの人たちは……?」
何から何まで白一色の病室を見回して、私は彼女に尋ねた。
「夕べは大勢の前であんなことをされて、びっくりしたでしょう?」
「それは……、まあ……」
「不妊治療にも色々と種類があるんですけど、その人の体質に合った治療法を見つけるためのマッチングテストが必要になってきます。子宮や卵巣や膣の状態を分析してデータ化させるわけです」
なにやら難しい話になってきたなと、私は苦手な顔をしてみせた。
「小村さんが妊婦として過ごしてきた10ヶ月間のデータはすべて、この病院の資格者によって保護され、徹底的に診断されています。そうですね、誤診の確率は1パーセント以下でしょうか」
彼女の言葉すべてを信用したわけではないが、徐々に洗脳されつつある自分がいるのも事実だ。
「私の個人情報も──」
「もちろん保護されています。それじゃあ小村さん、検温と血圧を計りますね」
彼女は時々うれしそうに自分のお腹に触れながら、業務的な手つきで看護師の仕事をこなしていく。
「平熱ですね。血圧も問題なさそうなので、ええと、朝食が終わり次第すぐに治療をはじめますけど、大丈夫ですか?」
いまさら私が嫌と言ったところで、常識が通用しないこの施設内から逃げ出せるとも思えない。
私は病院食に物足りなさを感じながらも、牛乳パックにささったストローに吸い付き、お腹に入れば何でもいいやと胃袋に流しこんだ。
一人きりの朝食を済ませ、ふと整理棚に目をやるとパンフレットらしき小冊子があった。表紙には病院のシンボルマークが描かれていて、それは緑色の四つ葉のクローバーを思わせるデザインだった。
きのう私が見た赤十字だと思っていたものは、間違いなくこれだ。
「いずみ記念病院院長、出海森仁(いずみもりひと)……、出海……」
そこに書かれている名前から自分なりに推理してみる。
夕べ私の女性器にさんざん無責任な行為をしてくれたあの医師は、院長というにはあまりにも若すぎる。だとすれば彼の父親か誰かが院長だと考えるのが妥当だろう。まったく親子そろって変態だ。親の顔を見てやりたい。
私は洗面台の前ですっぴんの顔にファンデーションを塗り、アイラインと眉毛に色気をほどこし、唇のふくらみを口紅でなぞって、頬には桜色のチークをのせていった。
メイクには自信があった。
これから治療がはじまるというのに、なぜ私がこんな真似をしているのかというと、おそらくそれが彼らの趣味であるということだろう。
「治療室の準備ができたら呼びに来ますので、それまでにメイクを済ませておいてください」
看護師の佐倉麻衣さんは確かにそう言っていた。
美的官能を味わいたいという彼らの願望を満たすために、私はいま化粧をしているのだ。ティシューも白ならコットンも白、のっぺらぼうな検診衣も真っ白ときてる。
「あなた色に染めてください」と言わんばかりの、なんちゃってウエディングドレスじゃない、これじゃあ。
「小村奈保子さん、準備ができたのでこちらへ──」
どうぞと軽く会釈をする佐倉さんに案内され、ナースステーションで申請を済ませると、ひたすら長い廊下をひそひそと歩いた。
途中、回診の医師やらスタッフやら若い女の子からお腹の大きな女性まで、すれ違う人はみんな信頼の眼差しで佐倉さんと笑顔を交わす。
「ここが小村さん専用の治療室です」
「私……専用って……?」
着いた場所には冷たい扉が立ちはだかり、もう後には引けない私の心情を笑っているようだった。
彼女はけして私を強引に治療室へ押し込もうとはせず、私の意思で扉を開けるのをじっと待っていた。
私は扉を開けた。止まっていた空気の流れが顔に押し寄せ、私は何度か瞬きをした。
奥に扉がもうひとつ。最初の扉はすでにオートロックがかかり、つくられた密室へと私は足を踏み入れた。
まず目に入ったのがたくさんの照明、そしてその下で待機していたのはまさしく分娩台そのもの。
特徴的なデザインは女性の自由を奪う造りとなっていて、それを見た瞬間に私の体のどこかで生理の変化がはじまった。
風邪の初期症状にも似た熱っぽさが、淫らな病巣を疼かせていたのだった。
男女数名のスタッフと医師や看護師、インターンの医学生の面々を見るかぎり、どうやら夕べの顔ぶれと変わりなさそうだった。
「治療の前にこちらに着替えてください」
スタッフのひとりが示した衣服に着替えると、私は全身を緊張させたままで分娩台と向き合い、早熟な少女のように恥ずかしがった。
腰を浮かせる、手をつく、腰掛ける、動揺する、寝そべってみる、力を抜く、右足を掛ける、下唇を噛む、左足を掛ける、また動揺する、唾を飲み込む、覚悟を決める、諦める、許す、すべてを彼らに委ねてみる。
「そんなに怖がらないで、あなたがお母さんになるための準備なのですから」
佐倉さんは言った。その気持ちに微笑み返したいのに、私の顔は引きつりそうになる。
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