8
「おはようございます、今日はすみませんでした」
私は店に着くなり店長のもとに行き、遅刻の言い訳をてきとうに口にした。
「小村さんが遅刻するなんて、今日は雪が降るかも知れないわね」
花屋の店長の名見静香(なみしずか)さんが、ほら、と空を見上げると、雪どころか雨の気配もない晴天がパノラマでひろがっていた。
あんなに高いところを小鳥が飛んで、呼吸するだけで春の草花の匂いが清々しく鼻腔を通り抜けていく。
テラスに並べられたプランターにはパステルカラーの生花が陽気を受けて、葉っぱの緑色にもいきおいがあった。これだから花屋の仕事はやめられない。
「そういえば小村さん、さっきあなたに面会したいって人が来ていたんだけど、私がいないって言ったら、なにかしら、名前も言わずに行ってしまって」
「私に面会って……、どんな人でした?」
「たしか、年齢は私に近い感じがしたから40歳くらいの男の人だったけど。それが……、なんだかホームレスみたいな格好をしていて、小村さんに用があるとはとても思えなかったわ」
私は頭の中で40歳の男性ホームレスの姿を想像してみた。
白髪混じりの癖っ毛に、ヤニで黄色くなった歯並び、穴のあいた軍手と腹巻き、それと季節に左右されない万年コートを猫背に羽織ってあてもなく徘徊する。
それは極端だけど、そんな人がいったいどんな用件で私に会いに来たのだろうか。
思いあたる節といえば……、今朝の痴漢騒動?いやいや、あの現場にホームレスらしき人物なんていなかったはずだ。
「さっそくだけど、配達お願いね」
「じゃあすぐ着替えてきます」
よっぽど重要な理由があるのなら、またそのうち向こうから現れるだろう。
私はボーダーシャツとワークエプロンに着替えると、軽トラックの荷台いっぱいにパンジーとビオラを積みこみ、晴れ晴れした気持ちで車を発進させた。
ラジオから流れてくるヒット曲のランキングは、いつしか私の予想を微妙に裏切りつつあった。もうそういう年齢になったのだと、バックミラーを覗くふりをして化粧崩れをチェックする。
「……?」
助手席に置いたバッグの中から携帯電話のバイブ音が聞こえた。
私は路上の適当なスペースに車を停め、着信履歴の番号に電話をかけた。
「もしもし、奈保子さん?」
女子高生の愛紗美ちゃんだった。
「どうしたの、うちに誰か来た?」
「ううん、べつに大した用じゃないんだけど、掃除機どこにあるのかなと思って」
「それだったら、玄関の近くの扉を開けてごらんなさい、そこにあるはずだから」
「わかった、探してみる。……、……、あれ?」
「なに、どうかした?」
「誰か来たみたい、インターホン鳴ってるし」
「ちょっと待って、出なくていいから、いい?」
「ひょっとして男の人だったりして」
「変なところに興味持たなくていいから、あなたは大人しくしてて」
「じゃあどんな人か、顔だけ見ておいてあげる……。あっ……、さいあく……」
「なにが最悪なの、ねえ愛紗美ちゃん、もしもし……?」
「……」
「もし……」
とつぜん通話が切れてしまった。
「ええっ……、やだやだ……」
焦りながらもう一度かけ直してみても、ガイダンスが否定的な決まり文句をくり返すだけだった。
私は急いで車を自宅マンションへと走らせた。嫌な胸騒ぎがする。
今朝の痴漢とホームレス、もうそのことしか頭に浮かんでこない。「最悪」と言って切れた電話を横目で見ながら、車も私の心臓も制限速度をオーバーしていくのだった。
マンションに着いた。
駐車場、エントランス、郵便受け、エレベーター、どこにも不審なところはない。
そして部屋の前まで来て、とりあえずインターホンを鳴らしてみた。
……。
返答はない。それもそうだ。さっき彼女と電話していた時にもインターホンが鳴って、私は彼女に出なくていいからと強く言ったから、ただそれを守っているだけなのだ。
私は玄関の鍵をあけ、ドアの向こうに彼女の靴がそろえてあるのを確認し、ほっと気の抜けた息をついた。
「ただいま、愛紗美ちゃん居るの?」
すると何事もなかった様子の彼女が、スカートを揺らしながら小走りで現れた。
「あれ、奈保子さん、もう仕事終わったの?」
そうじゃないでしょ。
あんな電話の切られ方したら誰だって慌てて帰ってくるでしょうに。
だいいち、女子高生ひとりきりの部屋に見ず知らずの人物が勝手に上がりこんで来た日には、痴漢なんて生易しい問題では済まないんだからね。
私は無言でそんな思いを発信した。彼女も彼女なりになにかを受信したようだ。
「そうだよね、あたしのせいで……」
「で、なにがあったの、うちに来たのは誰、なにが最悪なの?」
「ああ、あれね、そうそう。じつはさ、ケータイの電池がなくなっちゃってね、それで今充電させてもらってるとこ」
「なによもう、心配して損したじゃない」
「ごめんなさい……。それで、誰が来たのか見に行ったらね……」
「そしたら?」
「……誰もいなかった」
「誰も?」
「うん、誰も」
彼女の目は嘘を言っているようには見えなかった。
私が言うのも何だけど、今も昔も女子高生という存在は需要があって、流行の最先端であって、つかみどころがない。さじ加減ひとつ間違えればもう手に負えなくなってしまうのだ。
そうは言っても内面はやはりまだ少女のままで、体だけが大人になってしまった危うい年頃。それはもう性の標的にするには好都合な条件がそろっていて、そうやってこれまでにいくつの花びらが犯され、望まない交配を強要されてきたことだろうか。
「愛紗美ちゃん、あなたにはあなたの花を咲かせる権利がある。だからまた困ったことがあったら、なんでも私に相談してね」
「……花?」
この意味がわかる時がきっと来るから。
「奈保子さんの言いたいことはいまいちわかんないけど、ひとつだけ困ったことがあるんだ」
「どうしたの、まさかストーカー?」
首を横に振り、申し訳なさそうに自分のお腹をさする彼女。
まさか……、妊娠……?
「言いにくいんだけど、じつは──」
いまどきの現役女子高生の代表として彼女の口から出た告白。それを聞き終えた私はさっさと配達を済ませると、彼女を連れてとある建物に入り、いまに至る。
「まだ仕事の途中なんだからね、今回だけよ」
うんうん、と首だけ返事でにっこり笑い、彼女は期間限定ハンバーガーを両手ではさんで、レタスとトマトをはみ出させながら美味しそうにかぶりつく。
そういえばもう時刻はお昼だ。ついでに私も予算に収まる程度に空腹を満たしておこう。
「妊娠の相談かと思ったら、お腹が空いてただけなんて」
「妊娠なわけないじゃん」と言う彼女は携帯電話をいじるのと食べるのに夢中だ。
「このまま家の近くまで送ってあげるから、明日からはちゃんと学校に行くのよ」
「ママみたいなこと言ってる」
「私はあなたの保護者じゃないの」
すると急に押し黙ったかと思うと、「あたしのママ……、いないんだ……」と鼻でため息をつく彼女。
これは相当まずいことを聞いてしまったような気がする。
「いいのいいの、ただの離婚だからもう慣れてるし」
その言葉どおりに彼女は平然とした態度をくずさず、アヒルみたいな口をして笑ってみせる。
答えのある割り算みたいに簡単に割り切れる問題ではないことは、離婚歴のある私にもよくわかる。
忘れていたはずの過去を思い出してしまった私は、冷めたコーヒーに口をつけて苦い顔をした。
「ここでいい、ありがとう」
住宅街から少し外れたバス停付近に車を寄せると、彼女は早口でそう言った。
「通学の電車は時間をずらした方がいいからね」
「そんなのわかってるよ。だけどほんと、今日は奈保子さんにいろいろ迷惑かけちゃったし、エッチな下着までもらっちゃって」
「エッチは余計でしょ」
彼女の照れ笑いが私にもうつる。
「なんていうか、奈保子さんはハンサムな大人の女ってかんじで頼れるし、今日は楽しかった」
「それを言うなら、美人とか可愛いって言って欲しいんだけど」
ひとの話を聞いているのかいないのか、彼女はさっさと車から降りて、見栄えのいいルックスを私に向けた。
私はいちどだけクラクションを鳴らし、手を振る彼女をバックミラー越しに見送った。
※元投稿はこちら >>