「チョッと、志村君いいかな。」
背中越しに、私の名を呼ばれ、振り向くと課長席で彼が手招きをしていまし
た。
「はい」
無論仕事の話だと言う事は判っておりました。
職場の中では、公私の私の方は話さない様にしていますし、次の密会は、も
う少し先のはず。しかも先日の事が有り、少しばかり私も、自戒の念を抱い
ておりました。
主人に対し、あまりに惨い仕打ちをしてしまった様に思えておりました。
彼が嫌いな訳ではないのです。
それなのに、私のしている事は、完全な裏切り行為です。
自分でも、何でこんな行動に走るのか、時々判らなくなる時が有ります。
彼の事が好きで、こんな不倫を重ねているのかさえ、正直判らないのです。
ひょっとしたら、私自身の満たされない部分を、彼で補っているだけなのか
もしれません。彼を愛しているから、主人を裏切り続けていると言う自信
(?)は、正直言って有るのでしょうか?
「何でしょうか?」
流石に職場内の事、それなりの態度で彼に接する様にはしておりました。
「この書類、午後までに頼むね。」
「判りました、午後一番にお持ちします。」
仕事の話はそこで終わり、
「従妹の結婚式は、確か今度の休みだったよね?」
以前話しておいたので、それを覚えていた様です。
「ええ、日曜日に小田原の方で式を挙げる事になっています。」
「小田原? 又遠いね?」
「家が向うなもので・・・。」
「そう、それじゃご夫婦で、前の日から行くんだ?」
彼の質問にどう答えたら良いか、チョッと考えました。
「はい、そのつもりなんでけど、主人は仕事があるので、多分私だけ先に行く
事になるかも・・。」
結局、正直に話す事にした。
「判った、それじゃ書類の方宜しく。」
課長席から引き揚げて来ると、彼が何であんな事を尋ねて来たのか気になり
ました。
だが、その疑問は翌日判明しました。
昼間彼からメールが入っていました。
自分でも大胆だと思うのですが、着信名は課長と入れて有ります。
これなら、例え主人に履歴を見られたとしても、職場の上司からの連絡だと
思うはずです。
しかし内容は、とても上司からのものとは言い難いものでした。
<土曜の夜、二人で箱根と言うのは如何かな?>
初め、その文章を見た時、正直胸が高鳴りました。
何と、外泊の誘いなのです。
今の今まで、絶対に有りえないと思っていた二人だけの一泊旅行、
その欲求が無いと言ったら嘘になります。
しかし、現実にはあり得ない話。
夫有る身で、家を空ける事等到底無理な事と考えておりました。
それは多分彼も同じだったようです。
それが、昨日の私の話を聞いて、彼なりに考えた事なのでしょう。
メールを見た後、職場に戻ると、何気ない顔で彼は課長席で仕事をしており
ました。
私の方が、妙に興奮して落ち着かない気持
そんな空気に気がついたのか、彼がふと私の方に顔を向けたのです。
彼と目が合い、慌てて視線を外す私。
彼の目は、読んだね、と語っている様でした。
帰りの間、私はずっとその事を考えておりました。
前日から出掛ける事は、既に主人の許しを得ています。
ただ泊る場所までは話してはいません。
例えそれが箱根であろうと、誰と一緒だろうと家を空ける事に支障は無いの
です。
有るとすれば、それはその事自体でした。
彼と宿に泊ると言う事は、それ即ち、彼とのセックスを意味するのです。
果たして、夫有る身で、それが許されるか如何かと言う事。
もちろん、許されるはずはない。
そんな事は、決して有ってはならないのです。
それを、真剣に悩んでいる自分が、なんだか馬鹿馬鹿しく思えました。
(考える事なんか無いじゃない。答えは既に決まっているじゃないの、馬鹿
ね!)
私は、自分なりの答えを出すと、そう自身に語りかけたのでした。
<影法師>
※元投稿はこちら >>