仕事の後、同僚に内緒で、何度かお茶に誘われたが、あまりの熱心さに負
け、何度目かの誘いに、初めて夫に嘘をついて応じる事になった。
「こんな風にしていつも誘ったら、柴田さんの御主人に怒られそうです
ね?」
そんな言い方で、蔭山は照江を誘った事を詫びたが、
「そんなの構いませんわ、副店長が言う程、私の事なんか気にもしていませ
んから?」
照江は本当の事を言ったつもりだ。
すると、蔭山は、
「まさか、そんな事言って・・僕、本気にしちゃいますよ。」
自分でもわざとらしいと思う言い方だった。
「嘘なんか言っていませんわ、もう本当にそうなんですから・・。」
照江はむきになって夫婦仲を否定した。
「そうですね、我が家もそんな感じかな・・、俺の事なんか男として見てな
いみたいですよ。」
蔭山は照江を安心させる意味で、自分も同じ様だと話した。
「そんな事有りませんでしょう、副点さん、仕事は出来るし、身体だっ
て・・。」
照江はそう言ってから、言葉を止めた。
「身体・・ええ、まあスポーツしていましたから、水泳ですが、いまでも泳
いでいますよ。」
蔭山が泳ぐ真似をした。
「道理で・・ガッシリしているな・・とは思っていました。内の人なんかメ
タボ体型で、お腹なんかこんな・・。」
そう言ってお腹を大きくするポーズをとった。
「柴田さんは、内の奴より上ですよね。柴田さんの方が若々しく見える
な。」
「そんな事有りませんよ、もう、お婆さんですよ、私なんか・・。」
「そんな御謙遜を・・もし旦那さんがいなければ、口説きたい位だ。」
蔭山のその一言で、照江は表情を硬くした。
「あっ、済みません、つい調子に乗って・・。」
照江は何と応えて良いか判らずに黙っていると、
「でも、半分は本心ですよ。冗談なんかじゃないですから。」
蔭山の目が急に真剣なまなざしに変わっていた。
「もう、副店長・・、そんな、からかわないで下さい・・。」
照江が思わず顔を赤らめた。
すかさず、蔭山の手が、テーブルの上に有った照江の手に重ねられた。
「柴田さん、如何です? 勇気を出して、僕と大人の恋愛してみませ
ん?」
唐突な話を蔭山が投げかけた。
さすがに照江は慌てた。
「えっ? それって・・まさか・・?」
「怖いですか? ご主人が・・? 貴女の事何とも思っていない人なんでし
ょう?」
たたみかける様に蔭山が言葉を続ける。
「夫婦なんて、愛情が無ければ所詮他人じゃないですか。夫婦なんて・・み
んな他人同士なんですよ。僕と柴田さんだって、同じ様に他人同士じゃない
ですか?」
蔭山は言葉巧みに照江を口説いた。
「でも、それって、主人を裏切る事になるでしょう?」
照江は知らない内に蔭山の罠にかかっていた。
「真面目なんですね、柴田さんは。裏切るか・・。」
「違います・・?」
照代は気になった。蔭山のその言い方がとても気になった。
「じゃ聞きますけど・・結婚してから、一度たりと御主人を騙していた事は
有りません? 何かしら・・本当はそうじゃなかった・・なんて事有ったで
しょう? それだって一種の裏切りですよ。一つや二つの嘘は、夫婦の間で
はある意味許される事じゃないですか?
それが無い夫婦は、本当の夫婦なんかじゃないですよ。続けて行く意味もな
いな、そんな夫婦なら・・。」
蔭山の言葉は何故か照江の心に響いた。
「僕、正直言って貴女の事が好きです。これは本気です。妻よりも今は貴女
を抱きたい。」
蔭山の大胆な言い方に驚いた。
「そんな・・私なんか・・。」
「そんな言い方して欲しくないな。それは僕に失礼ですよ、貴女を好きにな
った僕に対して・・。」
この一言は照江をグラつかせた。
「もう・・副店長・・たら・・。」
蔭山のその言葉は、照代の自尊心を喜ばせた。夫にさえ言われた事の無い言
葉だ。
「どうです? 思い切って裏切りません?」
蔭山のその一言が、照江の中に今まで感じた事の無い感情を芽生えさせた。
(そうよ、私だって女なのよ・・、まだ女なのよ。)
照江のそんな心の迷いを、蔭山は見抜いていた。
多くの人妻を攻略している男の目は確かだった。
<影法師>
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