翌日、照江は何時もの様に出勤した。
「おはようございます。」
仲間達に挨拶を交しながら店の中に入ると、すでに蔭山の姿があった。
「おはようございます。」
照江は目を伏せて、その蔭山に挨拶をした。
「あっ、柴田さん、おはよう。今日も宜しくお願いします。」
何か特別な反応が有るか・・密かに期待していたのだが、それは照江の気の
廻し過ぎだった。
蔭山は、二人の間には何も無かった様に、照江をいつもの通り扱った。
正直照江には、それはショックだった。
彼女にとってあの出来事は、彼女のそれまでの人生の中で、実に大きな出来
事だったのだ。
だから、それなりの事が、蔭山の態度に見え隠れしても良いはずだった。
なのに、彼からは、そんな様子が少しも見えてはこない。
(なんで? 蔭山さんにとって夕べの出来事は、私が思う様な大きな出来事で
は無かったの?)
声には出さないものの、照江は自分の代償が、あまりにも小さい事に落胆し
た。
夫や娘を裏切ってまで行った事が、あまりにも無反応な事に、照江は怒りを
覚えていた。
蔭山の本当の気持ちが知りたかった。
本当は、あんなでは無く、仲間たちの前だから・・あんな態度しか取れない
に違いない。
そう考えた照江は、蔭山の周囲に人がいない時を見計らい、接触を試みたの
だった。
「副店長・・、夕べはどうも・・。」
蔭山も、そばに誰もいない事を確認したのか、
「僕も楽しかったよ、さっきは君の事を無視して御免、みんなの手前あんな態
度しかとれなくて。」
彼は小声で、照江に謝った。
「あっ、良いんです、そんな事。」
照江は、嬉しかった。
やはり自分が思った通りだった。
蔭山も自分と同じ思いなんだと、照江はそう思った。
だが、それは照江が思っていたのとは、多少そのニアンスは異なっていたの
だ。
蔭山が見せた気づかいの背景は、まだ照江を手放す気が無かっただけの事。
当分の間、照江をセフレとして利用しようと考えていた。
それを照江は錯覚したに過ぎなかった。その事を、照江はまだ気づいてはい
なかった。
「僕達の事は、判っていると思うけど、絶対に秘密だからね。照江は判ってく
れるよね。」
呼び方が、帰る頃には、柴田さんから・・照江に変わっていた。
「はい、判っています。」
いつの間にか、蔭山を受け入れてしまっている自分に気づいたものの、それ
を諌める自分が居なくなっている事に、少しも疑問を感じなかった。
その時、照江は不倫妻になった。
<影法師>
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