その日、由紀子の夫は予定通り大阪へ向かった。
「何かあれば、電話する。今日位は早く家に帰ってやれ。」
子供たちとの事を考えての、夫の由紀子に対する忠告だ。
最近由紀子が外出気味で、娘達との時間が不足している事を夫は心配してい
た。
出掛ける前に、その事を由紀子に仄めかせたのだろう。
由紀子は夫の言いたい事は判ってはいたが、彼女としては、今回ほど夫の出
張を恨めしく感じた事は無かった。
娘達も学校に行き、取りあえずは家事をこなすしか無い。
夫が思う通り、最近は外に出る事が多くなった。
以前なら考えられない位、家にいる時間は少なくなった。
全てそれらの時間は、即ち由紀子が家庭を裏切っている時間でもある。
それだけに、由紀子も辛く感じてはいる。
だが、今の由紀子には、内外ともにそれを止める手立てが無かった。
せめて与えられた主婦としての仕事をこなす事が、由紀子の母として、妻と
しての精一杯の勤めだと考えていた。
元々、炊事、洗濯などの家事を嫌いでは無い。
積極的にやっていた方だと今でも思う。
だが、あの事以来、そんなささやかな主婦と言う仕事をこなす余裕が無くな
った。
その主婦の座を守る為、由紀子は家族を裏切ってしまった。
柴田がどんな風にして家に侵入してくるのか、その事が気になった。
柴田は夕方までは歯科医としての仕事がある。
それを放り投げてまで来るとは考えられない。
したがって、来るとすれば当然仕事を終えてからと言う事になる。
由紀子はそう考えた。
それまでは、普通に家事をすればいい・・。
由紀子は、ともかくも夕方までは何も考えずに家事に集中する事にした。
時刻は5時を廻っていた。
娘達は学校から戻り、リビングでテレビを見ていた。
由紀子は夕食の支度にかかっていた。
時間が気になり始めた。
こんな事ではいけないと思いながらも、ついつい時計を眺めてしまう。
(そうだ、娘達が玄関の鍵を掛けているかもしれない・・。)
柴田に鍵を開けておくように言われていた。
約束を守らなければ、あとでどんな仕返しをされるか判らない。
由紀子はそれが恐ろしかった。
柴田とはそういう男なのだ。
それは、由紀子自身、身をもって知った事でもある。
案の定、玄関の鍵は施錠されていた。
娘達が学校から帰った際、必ず鍵をする様に躾ていたのだ。
(良かったわ、確かめておいて・・。)
心からそう思うと、由紀子は安堵した。
彼女は怯えていた、柴田と言う男に・・。
中々柴田はその姿を見せなかった。
夕食を終え、キッチンで洗い物をしている時だった。
リビングの電話が鳴った。
上の娘が電話に出ると、すぐに由紀子を呼んだ。
「お母さんに電話・・。」
由紀子の手が一瞬止まった。
「はい、今出るから・・。」
その電話はまさに柴田からだった。
「これから行く、いいか、良く聞け、俺がチャイムを鳴らした、由紀子が必
ず応対に出ろ。ドアを開けたら、すぐ俺を中に入れろ。その後は、家を尋ね
られたとか何とか言って子供達には言っておけばいい。俺が家の中に入った
とは思いっこないからな。」
それが柴田の考えた侵入方法だった。
「この前の部屋に隠れているから、その後上手い事言って来るのだ、いい
か!」
柴田は強い口調で、そう命じた。
由紀子は電話を切ると、
「今の人誰? 変な人よ、お父さんが出掛けると聞いていたけど・・なんて
言うのよ。」
「ええ、お父さんの会社の人よ、お父さん出掛けたか確認させて欲しい・・
て?」
「ふ~ん」
上の娘はそれ以上訊ねては来なかったが、由紀子は気にはなった。
怪しい雰囲気を娘なりに感じている様だと・・。
(本当に大丈夫だろうか・・?)
由紀子はこれからの事が本気で心配になった。
家の中に、他人が潜んでいる事を隠し通せるものだろうか・・?
しかも、隠れているだけでは済まないはず。
柴田の目的が由紀子にある事は明らかだった。
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