三話
_その日の食卓には筑前煮がならんだ。
「うん、母さんの味だな」
_紳一が頬をふくらませてそう言うと、春子の表情が明るくなった。
_母の背中で童謡を聴きながら、母が作る筑前煮が鍋の中でコトコト煮立っていくのを面白そうに見ていた記憶がある。
「これならどこに嫁に出しても恥ずかしくないな」
「私はまだお嫁に行く気なんてないよ、お父さんが再婚するまではね」
「僕はもう結婚はよしておくよ、もう四十二だしな」
「まだ四十二だよ。そんなこと言って私がお嫁に行きそびれたら、お父さんがもらってよね?」
_春子は本音に冗談をかぶせて言ってはみたものの、内心ドキドキしながら紳一の言葉を待った。
「いいよ、その時は僕が春子をもらってあげるよ」
_春子は動揺した。
_嬉しさで胸が詰まりそうにもなった。
_そんなことを聞いた自分もわるいが、父のくちから出た言葉が本心ではなくても、体の奥からこみ上げてくるものを抑えきれずに涙ぐんでしまった。
「どうした?」
「うん、なんでもない。お母さんのことを思い出したから──」
_春子は笑顔をつくってごまかした。
_その夜はなかなか寝つけず、何度も寝返りを打ちながら紳一の言葉を思い起こしていた。
「僕が春子をもらってあげるよ」
_紳一にとっては何気なく言ったつもりの一言が、春子の鳩尾(みぞおち)のあたりを熱くさせていた。
_でも──、と春子はいつもとは違う体の変化に気づく。
_下腹部の内側からジワジワと染み出してくるような残尿感に似たものを感じたのだ。
_あきらかに月経の気持ち悪さとは違う。
_気持ちいいの?と十六歳の自分に問いかけた。
_窓の外の月はあんなにくっきりと浮かんでいるのに、そんなことを考えていると、ますます目が冴えてきて眠れない。
_不潔。
_父親に対して好意を抱くなんて、私は不潔な娘だ。
_たまたま好きになった人が父親だったのか、それとも父親だから好きになったのか、どちらにしても私は父に恋している。
_母とおなじ人を好きになっている。
_こんなに苦しい思いをするのなら、好きにならなければ良かった。
_そうやってまた枕を濡らしているうちに、春子はいつの間にか眠ってしまっていた。
_翌朝、春子が起きてくる頃には、家に紳一の姿はなかった。
_柱の日めくりカレンダーの赤い日付を見て、祝日だということを春子はようやく思い出した。
_いけない、美智代と約束していたんだ。
_あわただしく支度を済ませて庭先に出ると、そこに停めてある自転車のスタンドを軽く蹴ってまたがろうとした。
_その時、春子の目が何かにとまった。
_なんだろう、これ?
_よく見ると、自転車のサドルが白く汚れている。
_かたつむりの這った跡が乾いて白い粉を吹いているようにも見える。
_梅雨入りが近づけば、そろそろかたつむりも活発に活動をはじめる時期だ、と春子は思った。
_タオルの端を軽く水で濡らしてサドル拭いてみると、微かなぬめりを指先に残しながら汚れは消えていった。
_しかし、その様子をうかがう汚らわしい視線が自分を舐めていることに春子は気づいていない。
_夕べの男だ。
_生い茂る葉っぱの隙間から春子をじっと見つめて、ゴクリと生唾を飲みこむ。
「そこにこびり付いていたものが何なのか、後でおじさんが教えてやろう。大人の女に目覚めるための儀式だ。おじさんに見初められるとは、春ちゃんは運がいい」
_そんな歪んだ思いを腹にため込んで、念仏を唱えるようにつぶやいた。
_春子はサドルの上を手で払って、スカート越しに自分の全体重をそこにあずけた。
_それを見届けた男が、歯並びのわるい前歯をむき出してニヤリと笑う。
「それでいい。俺の精子を好きなだけ股で食えばいいんだ」
_こぎ出した春子の姿が見えなくなるまで、男は瞬きをしようとはしなかった。
_春子が去ったあと、抜け落ちた鳥の羽根が風に舞っていたのだった。
_田植えがはじまったばかりの田園の中を、春子の自転車が抜けていく。
_時を同じくして、くたびれた看板をぶら下げた古本屋に紳一の姿があった。
_しきりにあごを撫でながら本を読みふけっている。
「あ、深海春子さんの──」と紳一に声をかけてきたのは、春子の通う高校の森南つぐみだった。
「ああ、先生どうも、おはようございます」と紳一が会釈すると、つぐみもしとやかな笑顔で返した。
_声をかけたのはいいが、何を話したら良いのかわからなくて困っている様子のつぐみの心情を察して、「先生も本、お好きですか?」と紳一が気さくに話しかけた。
「はい、短編小説なんかを良く」
「そうでしたか。僕も小説が好きで、よくここで立ち読みしているんです」
「じゃあ、お父さんは──」
「お父さんは、よしてください。名前でいいです」
「あの……私……深海さんの名前、知らないんですけれど」
_おもしろいことを言う人だ、と紳一は思った。
「いえいえ、下の名前ではなくてですね──」
「あ、そう、そうですよね、なんだか私、すいません」
_つぐみは恥ずかしくなって、顔も耳たぶも真っ赤になった。
「先生は可愛らしい人だ」
「え?──」
_紳一のそのひと言が、つぐみの心を引き寄せてしまった。
_二十六歳になって、年上の男性から「可愛らしい」と言われるなんて、どういうつもりでそんなことを言ったんだろう、と紳一の顔を見上げた。
_彼の眼差しがあたたかい。
_しだいに会話がはずんでいくうちに、二人の距離が縮まった気がして、つぐみは舞い上がっていた。
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