最終話
_美智代はこの家のどこかで私とお父さん(和彦)の秘密を覗いているのかしら。
_お父さん(紳一)は今頃、森南先生と一緒に過ごしているのだろうか。
_お母さんが生きていたのなら、今の私を叱ってくれるのだろうか。
_春子は和彦に色化粧をされたうえに、もう長い時間犯されながらも、今まで出会った人たちの顔を思い浮かべていた。
「お父さああん……私いい……もう……」
「紫乃……愛しているんだ……君が誰の子どもを産もうが、俺は……」
_それから父と娘はそれぞれの愛し方で、それぞれの精と卵(らん)の巣をさぐり合い、天井まで絶頂した。
_言葉がでない。
_無理矢理に抱かれたというのに、春子の心は波風のたたない穏やかな気持ちだった。
「春子」
「なに?」
「俺はまだお母さんのことが、紫乃のことが忘れられなくて、春子を紫乃の代わりに抱いてしまった。ひどい父親だ」
「いきなりだったから、最初はつらかったけど、お父さんの方がもっとつらかったんだよね?だから我慢できるよ私。まだしたいなら、もっと抱いても──」
「それだけじゃないんだ。もっと大事なことが、おまえの知らない秘密があるのだ」
「それって、どういう──」
「それはつまり」
_目の前の春子の体がまだ色濃く火照っているのを見て和彦は言葉を飲んだが、すぐに視線を春子に向けなおして、告白した。
「春子の母親は紫乃だけど、父親は……俺じゃない」
「あいかわらず嘘が下手だね、お父さんは」
「それなら嘘だと思って聞いてくれ。お母さんは……佐々木さんに犯されたことがあったんだ。わかるか?あの男は紫乃を無理矢理妊娠させたんだ。それでどうなったと思う?」
「あ……え?……お母さんが?……」
_まだ全裸のままだったせいか、春子は背筋を冷やすほどの寒気を感じた。
_その背中に和彦はそっと、春子が着てきた浴衣をかけてあげた。
_母や、母に関わった人たちとの黒い過去が、自分の心底に語りかけてくるようだった。
_善悪の区別がつく年頃になったのなら、おまえは誰を信じて、誰を愛して、誰に愛されたいのだ?と。
_湧きあがってくるのは、涙、涙、そして涙。
_いちばんの被害者は紫乃なのだが、そのことを数年の時間を費やしてもなお癒せないでいた和彦の心は、身を切られるほど痛むに違いない。
_しかし──。
「ぐすっ……お母さんのことは哀しいけど、すっ……私、思い出した……。やっぱりお父さんがいちばん可哀想……。だって、お父さんは勘違いしているんだもの、私のことを」
_春子は鼻水をすすりすすり、涙声で言った。
_紫乃が佐々木繁に犯されて産まれた女の子が春子なのだ、と言ったつもりだった。
_それなのにおまえは、俺が誤ったことを言っていると言うのか。
_和彦はそう言いたかった。
_自分に向けられた春子の目には揺るぎないものが宿っているようにも見えて、その濡れた唇がうごいた。
「私と血がつながっているのは、佐々木繁でもなければ、深海紳一でもなくて、目の前にいる人なんだもの」
_和彦の表情はさだまっていない。
「お父さんとお母さんが離婚して少し落ち着いてきた頃だったと思う。私もまだおねしょしていた時期だったし、その時お母さんが言ってくれた言葉の意味もわかってあげられなかったけど、さっきのお父さんの話を聞いてわかった。あのね──これは大人の事情だから難しいお話だけれど、お父さんが遠くに行ってしまったのは、お母さんが悪いことをしたからなの。だからお父さんを嫌いにならないでね。それともうひとつ、世の中には、ついていい嘘と、ついてはいけない嘘があって、それは春子が大人になったらわかると思うんだけど、お母さんはお父さんの為に嘘をついたのよ。いつかどこかで春子がお父さんに出会って、そこでお父さんがどんなことを言ったとしても、春子は私とお父さんの間に産まれた子なのだから、それだけは忘れないでいて。ごめんね──って、あの時お母さんは哀しい笑顔で言っていたもの」
「もうよしてくれ」
_春子の言葉を最後まで聞ける自信を失って、和彦は奥歯に力を入れた。
「お母さんがついた嘘って、私が佐々木さんの子どもだって言ったことだよきっと。お父さんわかる?私はお母さんとおなじ女だからわかるよ。私は佐々木さんの子じゃなかったけど、お母さんはお父さん以外の人に抱かれた自分が許せなくて、お父さんに申し訳なくて、わざとお父さんに嫌われようとして嘘をついたのだと思う」
「そんな……紫乃は俺の為に……」
_意気地なさげに和彦はため息をついた。
「だって、私が今の新しいお父さんを愛してしまった時、この人の子どもを産みたい、って思ったんだもの。それって母性本能っていうんだよね?」
_二人はずっと向かい合ってはいるが、視線が合わせられない。
_父と娘の微妙な距離というのか、行為の後の体の疼きがまだ残っているからなのか、和彦の脳裏にもっとも醜い言葉が浮かんだ。
近親相姦。
_春子が自分の血を継いだ実の娘とわかった今、かつて自分が犯してきた罪の重さが鉛のようになって胃に穴を空けているみたいだった。
「こんなに顔が似ている他人なんて、絶対いないんだから」
_春子のその言葉にようやく目線を上げ、和彦は娘の表情に自分の要素をさがして、やがて泣き崩れた。
_それからの記憶はもうひどく雑で曖昧だった。
_疲れ果てた二人きりの部屋に明るい太陽の光が射し込み、かすかに風が吹き込んでくる。
_閉まっていたはずの戸が開いている。
_その向こうから現れた少女は毛布にくるまったままスーツ姿の女性に肩を抱かれ、さらに数人の大人がなだれ込むように部屋の中へと押し入ってきたかと思うと、春子と和彦にも毛布をかぶせて、「九門和彦だな?」とドスの利いた声をとばした。
_和彦はそのまま大人たちに部屋の外へと連れて行かれ、スーツ姿の女性に連れてこられたのが美智代だとわかると、春子は美智代と抱き合って涙が枯れるまで泣いた。
_美智代は和彦によってこの家に連れて来られ、春子が来るまえにすでに犯されていたのだった。
_春子とおなじように手足を縛られていたのだが、なんとか自力でそれを解き、それでも警察に直接電話をするのが恐くて、父親である桜園善次に助けを求めて電話をかけた。
_春子を追って家を出た紳一も、和彦と春子の居場所の見当がまったくつかず、美智代と祭に行く約束をしていたという春子の言葉を思い出し、桜園家を訪ねたところにその電話があったのだった。
_紳一も一緒に春子のもとに急ぎたい気持ちもとうぜんあったのだが、紳一にはもう一つ気がかりなことがあった。
_残してきた佐々木繁と森南つぐみのことだ。
_警察が和彦の家に向かっているあいだに、紳一は自宅に向かっていたのだった。
_そして自宅に二人の姿がないとわかると、そのまま繁の家へと向かった。
_つらい選択だった。
_春子とつぐみを同時に救ってやりたかった。
_しかし、春子の方は警察に任せておけば大丈夫だろうという甘さが紳一にはあって、つぐみを救ってやれるのは自分だけだと思い込んでいたのだ。
_そして繁の家の中で紳一が見た光景とは、へたり込んだまま破れたブラウスのボタンをとめているつぐみの変わり果てた姿と、その傍らで蛙が腹を見せているように仰向けになって気絶している繁の姿だった。
_紳一はなにも言わずにつぐみのもとに駆け寄り、彼女の背骨を撫でるように抱きしめた。
_思いを寄せる人の前にさらすにはあまりにも淫らな姿だ、と我に返るつぐみは、涙の枯れた目をふたたび絞って彼の体に甘えた。
_工場の煙突は真っ黒な煙をもうもうと吐いて、鉄を灼いたような夕陽がその向こうに沈もうとしていた。
_九門和彦と佐々木繁は、しかるべき場所で裁かれ、罪を償う日々を送ることになるだろう。
_それは、紫乃の卵(らん)をもてあそび、それに関わった人たちの人生を狂わせたことに比べたら、もしかしたら微塵に等しいかも知れない。
_紳一はそんなことを思いながら、春子とつぐみの間でまた揺れていた。
「春子、僕は春子を愛しているし、これからもずっと大事にしていくつもりだ」
「うん……」
「春子がひどいことをされたのは知っているけれど、森南先生もおなじくらいひどい目に遭って、それでも頼れる人がいないまま今も家にひとりで居るんだ」
「そうだよね……」
「それはつまり」
_紳一はその先を言うのをためらったが、春子の瞳に芯が通っているのを感じて、おだやかに言った。
「しばらく僕が先生のそばに居てあげたほうがいいと思うんだ。彼女の心の傷が癒えるまでのあいだ、春子には寂しい思いをさせるかも知れない」
「私もそれがいいと思う。私なら平気、ずっとお父さんに甘えっぱなしなのも良くないし」
_春子なりの精一杯の強がりだったが、それでも恋盛りの十六歳の少女なのだから、しくしくと疼く胸の痛みは春子に悲しみの底を見せていた。
_そして、紳一が背を向けた途端に熱いものがこみ上げてきて、その姿が見えなくなるとたまらずしゃがみ込んで涙を溢れさせた。
_誰もいなくなった。
_ひとりぼっちの暗い部屋で灯りもつけずに、和彦に抱かれた後に聞こえた心の声を思い返してみた。
おまえは誰を信じて、誰を愛して、誰に愛されたいのだ?
_その答えは出ている。
_だからこそまた涙が湧いてくる。
_心のどこかで、紳一が帰って来ないほうへ賭けている自分がいた。
「ただいま」
え……?お父さん……?
_春子は部屋の灯りをつけて、ふらふらと玄関に出てみた。
_そこに居たのは間違いなく紳一だった。
「ええ……?どうして……?だってお父さんは先生と……」
_春子は戸惑う。
_紳一は笑顔を返す。
「先生に叱られてしまったよ。いちばん大事な人を放ってほかの女性に会いに来るなんて、あなたは自惚れが過ぎます、ってね」
_春子はもう震えていた。
_景色が涙で滲みかけている。
_紳一が春子の目の前まで来てみると、愛しさを隠さず見つめ返してくる春子の目から涙がすじになってこぼれた。
「どうした?帰って来ないほうが良かったかな」
「……そうだよ。手ぶらで帰ってくるなんて、女の子に対して失礼よ」
_嬉しいのに悔しい。
_春子の表情にはそう書いてあった。
「これで許してくれとは言わないが」と紳一がポケットから取り出したのは、硝子の石がついた指輪だった。
「途中で縁日を見ていたら、売れ残っていたから仕方なくだな──」
_照れ隠しで冗談を言いながら、春子の薬指にそれを通していった。
「なによこれ……?私、そんなに子どもに見える?」
_春子の頬がゆるんでえくぼが見えた。
「春子がほんとうにお嫁に行きそびれた時には、本物の指輪を受け取ってくれるか?」
_この瞬間の為に自分は今まで生きてきたのだ、と春子は鼻をふくらませて、黙ってうなずいた。
_そして二人はいつまでも抱き合い、いつか来る十月十日(とつきとおか)を望みながら、卵(らん)のしずくの恵みを授かりたいと思うのだった。
おわり
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