十七話
_静まり返った部屋に春子の残り香があった。
_その香りのもとをたどっていくと、洗濯かごの中のハンカチに行き着く。
_春子はこのハンカチで自分の恥部の汚れを拭って、下着と重ねて置いていったのだった。
_紳一はもう一度、春子の膣の肌触りを思い出しながら、ハンカチの濡れた部分に触れてみた。
_春子の子宮や膣から下りてきた汁が紳一の指を濡らして、その匂いが鼻を通ってまたすぐに匂ってくる。
「紫乃、まさかきみの娘を恋しく思う日がくるとは思ってもみなかったよ。だらしのないこんな僕を、女癖のわるい男だと叱ってくれ」
_紳一がそんなことをつぶやいていた時、玄関先に人の気配を感じた。
「春子か?」
_ガラス戸の向こうに人影が映って、それが春子のものではないとすぐにわかった。
_来客は、佐々木繁だった。
「紳一くん……」
_その表情は重く、年齢よりもますます老けこんで見える。
「あん時……、わしが犯したんだ……、おなごの体に目が眩んだんだ……」
_繁は声をふるわせて、そのままへたり込んでしまった。
_それを聞いて紳一は直感した。
_あの日、墓地で少女を犯したのは繁だったのだと。
_繁が火男(ひょっとこ)の面を被って少女に淫らな仕置きをする姿が頭に浮かんで、紳一はなんともやりきれない思いで眉間にシワを寄せた。
_ちょうど同じ頃、春子は浴衣の着付けを済ませて美智代との待ち合わせの場所に向かっていた。
_「楽市楽座」と名付けられた縁日が神社から商店通りまで続いていて、金魚すくいや鉄板焼きの屋台に、花火売りなどが並んでいる。
_人と人とが肩をぶつけ合いながらせわしく行き交う中、春子は浴衣のくずれを気にしながら美智代の姿を探していた。
_すれ違う男という男はみんな自分のほうを見ている気がするし、お面売りの露店に火男のお面を見つけると、あの日の墓地での強姦事件のことを思い出すのだった。
「春子」
_背中のほうから自分を呼ぶ声がする。
_だれ……?
_どこ……?
_人の熱気にほっぺを紅くしながらあたりを見渡してみると……、彼はそこに居た。
「お父さん」
_人波から頭ひとつ分だけとび出たその顔は紳一のものではなく、九門和彦だった。
_和彦は春子の手をひいて神社の裏まで連れて行くと、ワイシャツの襟で顔をあおぎながらこう言った。
「このあいだ春子と一緒に居た友達、美智代ちゃんのことだが──」
「美智代なら今日、私とお祭に来る約束をしていたわ。でもまだ会えていないの」
「じつは今、俺の家で春子を待ってるんだ。生臭い事件があったあの日も、春子と友達と二人してうちに来てくれただろう?」
_町内のとある墓地で、ひとりの少女が膣から蛙の卵を垂れ流した姿で保護されたあの日、春子と美智代は和彦と一緒にいたのだった。
_紳一の前で和彦の話をすると紳一が嫌な顔をするので、春子はあの時も、誰とどこに居たのかと紳一から問いつめられても明かすことができず、美智代にも口止めしていたのだった。
「深海紳一さんにはほんとうに感謝しているんだ。紫乃のことも大事にしてくれていたし、春子のことも賢くて美しい娘に育ててくれたからな」
「ありがとう」
「それじゃあ、美智代ちゃんが待っているから、行こうか」
「うん」
_和彦は自分の車の助手席に春子を乗せて、隣町の自宅に向かって車を走らせた。
_春子が車のうしろを覗きこむと、まだ灯りの灯っていない提灯と、にぎわう人波が遠ざかっていくのが見えていた。
_空には痩せた月と、肥えた太陽が浮かんでいた。
_紳一は繁を家に上がらせて、とにかく訳を訊こうと模索していたが、かけてやれる言葉がなかなか見つからない。
「佐々木さんが言っているのは、このあいだの墓地での出来事ですよね?」
_紳一は真実に触れるのが恐ろしかったが、できるだけ繁を興奮させないように訊いた。
「そうじゃない……、そうじゃないんさ……。わしが言っているのは紫乃さんのことさ……」
「……紫乃のこと?」
_繁から突きつけられた言葉は、紳一の思っていたものとは違っていたから、今度は紳一のほうが言葉をなくしてしまった。
_紫乃のこととは……どういうことだ?
「ほんとうにすまん。和彦くんから話を聞かされた時、わしもホラ話だと思いたかったんだが、……身に覚えがあったんさ。……紫乃さんも和彦くんも、ぜんぶわかっていたようだ」
_紳一は息を飲んで話のつづきを待った。
「春ちゃんは……わしの娘だ」
_ひどい耳鳴りがした。
_紳一と繁のあいだに長い沈黙がつづいて、顔面からは脂汗が浮き出てくる。
_春子が佐々木さんの娘だということは、紫乃は佐々木さんに犯されて──。
_それを悟ると紳一の腹の底からは怒りがこみ上げてきた。
「あんたは……、あんたは何をやっているんだ!」
_紳一は殴りかかりたい気持ちをこらえて、繁を一喝した。
_その声に繁は一瞬、身を縮こまらせて、たるんだほっぺを震わせて怯えていた。
_しかし事実を語らなければ自分はまた罪を犯してしまう。
_そう思って繁は声を絞り出して過去を語りだした。
_恋仲にあった九門和彦と紫乃は真面目な付き合いの中に将来を見出して、まもなく夫婦(めおと)となった。
_しかしながら紫乃があまりにも美しい女であったために、その結婚を羨む者もいれば妬む者もいた。
_とうぜん繁も紫乃に唾をつけておきたいと企んでいた一人だったから、自ら営む養鶏場の卵を差し入れては家族ぐるみの付き合いを重ね、紫乃の心に隙ができるのをうかがっていたのだ。
_そしてある日、繁は和彦が留守のあいだに九門家に上がりこみ、ひとりで炊事場にいた紫乃を床の間まで連れて行って、力ずくで犯し、乳をしごいて、女穴の中に精液を擦り込んだのだった。
_おそらくその時に紫乃の卵(らん)は繁の種をもらい、日に日にふくらんでいく小さな命は、それでも生きたいと必死に母の腹を蹴り、和彦の子だと偽ったままやがて臨月を迎え、産声をあげた。
_それが春子だ。
_胸の内に暗いものを抱えたまま春子を育てていくと決心した紫乃だったが、和彦に対する裏切りがしこりとなって子宮にこびり付き、ときどきキリキリと痛むのだった。
_そんな暮らしが永くつづくはずもなく、ある日、紫乃は和彦にほんとうのことを打ち明け、その後ふたりは離婚を選択して別れた。
「まさかあん時に子ができて……、それが春子だって……。わしが父親だと言ってしまってええのか……」
_繁はもはや自分を見失い、涙だか汗だかわからないものが顎からしたたり落ちていた。
「佐々木さん、あんたは紫乃だけでは飽きたらず、あの墓地で、未成年の少女にまで淫らな行為をしてしまっているんですよ!どうやって償うつもりですか!」
_紳一は言葉の一句一句に感情をこめて、繁の改心をねがいながら言った。
「だからそれは違うと、さっきも言ったばかりで……。わしは紳一くんにその事を言わねばならん」
「言い訳はよしてください」
「言い訳なんか言わん。あの学生さんを犯したんは、九門和彦くんなんだ……。この話……どう思うかね?」
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