十四話
_それから何日も雨は休まず降りつづいて、たまに見える晴れ間が水たまりに映ったかと思えば、あっというまに雲の向こうへ消えていった。
「あれから何も起きないね。もう犯人は捕まったのか、それかどこかへ逃げてしまったのかな?」
_校舎の窓から外を眺めたまま、うんざりした感じで美智代が言った。
「どうなんだろうね。その人がいなくなったとしても、男の人ってみんなそんなふうに私たちのこと見てるかも知れないし、結局は自分をまもれるのは自分なんだよ」
_春子が少し強めの口調でかえした。
「そうだよね。もう、こんなことなら合気道とか空手でも習っておけばよかった」
「あら、美智代はそんな心配いらないんじゃない?」
「それどういう意味?」
_春子と美智代は、いやだ、やめて、とじゃれ合いながら、お互いのスカートの裾を捲ろうとしてはしゃいでいた。
「あなたたち、女の子なんだからもっとおしとやかにしなさい」
_その声のするほうへ目を向けると、あいかわらず清潔感のある容姿をした森南つぐみが、分厚い教科書を抱えて立っていた。
_すいません、と二人が反省なさげに頭を下げると、つぐみは春子だけを教室の外に呼び出した。
「お父さん、あれから体の具合どう?」
「森南先生のおかげで父の体調もすっかり良くなって、仕事のほうも行けるようになりました。あの時はありがとうございました」
「いいえ、私はお見舞いに行っただけだもの。それより、もうすぐ町内のお祭があるわよね?春子ちゃんは誰と行くの?」
「私は美智代と行くつもりです」
「……そう、桜園さんと」
_そう言ったそばで、つぐみの頬が紅く染まったように春子には見えた。
_きっと先生はお父さんと一緒にお祭に行きたいんだわ。
_私だってほんとうはお父さんと行きたいけど、そんなのまわりから見たら絶対おかしいもの。
_あの日みたいにまた先生とお父さんを二人きりにさせていいのかな……。
_あの日に何があったか知らないけれど、これ以上仲良くされたら私はどうしたらいいのか……。
_目の前の晴れやかな可愛らしさのあるつぐみと、可愛げのない自分。
_くらべる物差しはないけれど、つぐみに対してはどうしても一歩ひいてしまう春子だった。
_数日後、梅雨の中休みといったところだろうか、夜中のうちから雨はやんでいて、その日は朝から快晴にめぐまれ、久しぶりの明るい陽射しがいっぱいに降り注いでいた。
_祭の当日だった。
_昼間のうちは、小学校の男子児童らが大中小の神輿(みこし)を担いで町内を練り歩き、女子児童らは笛や太鼓の祭囃子(まつりばやし)で盛り上げる。
_最終的には神社に神輿を奉納して昼間の行事は終わる。
_そして夜ともなれば、神社のそばの広場にやぐらを組んで、そこに酒樽ほどの大きな太鼓を置き、その年の年男たちが順番に太鼓打ちをするのである。
_今はその夜の部の準備の真っ最中で、町の青年部や婦人部、それに消防団までもかり出され、この時ばかりは安全巡回をしようにも人手が足りないのだった。
「ただいま」
_浴衣の着付けをしてもらうために、ちかくの美容院まで行っていた春子が帰ってきたのだった。
_でもその声にいつものはつらつとした明るさはなく、それでもなんというか、なにかを決断した時の一本すじの通った大人びた声でもあった。
「おかえり」
_紳一が玄関まで出向くと、そこに薄水色の生地に紫の朝顔の柄が可憐に咲いた浴衣姿が見えて、うつむき加減にはにかむ春子の笑顔と目が合った。
「……」
_紳一は春子に見とれて言葉を失った。
「この色、似合う?……おかしくないよね?」
「ああ……そうだな。春子があんまり綺麗だから、ちょっと驚いた」
_紳一の目が泳ぐ。
「そんなことないよ。だってまだ十六の田舎娘だもの」
_そう言いながらも春子は胸がふるえるほど嬉しい気持ちになって、それでもできるだけおだやかに振る舞った。
_器用に結われた髪の下からのぞいた細ながい首、そこから視線を流していけば、うなじの大人しい色気が紳一の心を奪う。
_血縁はないといっても、歳はいくつも離れている。
_それなのにこの心が洗われるような春子の美しさは、ふさわしい言葉がなかなか出てこない。
_余計な露出などいらない。
_さりげなくのぞく足首、手先、さきほどの透き通るようなうなじから鎖骨にいたるまでの皮のうすい肌。
_亡き妻の紫乃が春子の成長を見ることができたなら、どれほど喜んだだろう、と紳一は淡い思いにひたった。
「ねえ、お父さんは誰と行くの?」
_ところどころささくれ立った畳のある居間に上がると、いちばん気がかりなところを春子は訊いた。
「そうだな、工場の連中とどこかで飲もうかと考えていたところだ。なんの色気もないけどな」
「私が一緒に行ってあげようか?お祭」
「春子が、どうしてもと言うのなら行ってあげてもいいぞ」
_紳一が上からの目線で言う。
「お父さんが、私と一緒がいいって言うのなら行ってあげてもいいよ」
_負けじと春子もさらに上から言う。
_そこに可愛らしい八重歯がのぞいて、春子の顔にとびきりの笑みが灯った。
「約束どおり、友達と行ってきなさい。春子が行きたい人と行けばいい」
_紳一なりに考えた上でのひとことだったのだが、その言葉に寂しい距離を感じて、春子の笑顔はまたしぼみかけた。
「私、お父さんと……」
_そう言いかけて、かかとを畳にとんとんとあてながら、いじけるように俯く春子。
「どうした?」
「……」
_黙ったまま足の指を結んだり開いたりしている。
「じゃあ、こうしたらいい。昼間は友達と出かけて、夜になったら僕に付き合ってくれ。どうだろう?」
_紳一は、ひざを抱えて座っている春子の背中に自分の背中をくっつけ、わざとそういう構図を好んで座ったままそう言った。
「うん」
_背中合わせのまま春子はうなずいた。
_遠くの方から太鼓の音が聴こえてくる。
_まるで春子の胸の高鳴りをかき消すような響きであった。
「お父さん」
「うん?」
「なんだか胸が……息苦しくなってきちゃった……」
_紳一が振り返ると、朱色の帯のあたりを手でおさえて春子が天井を仰いでいる。
「どこか痛むのか?」
「帯が……帯が……」
_どうやら帯をきつく締めすぎたらしい。
_春子の額に汗がにじんでいる。
「少しゆるめるか?」
_その言葉に春子は首を横にふって、「ほどいて……」とかすれた声でこたえた。
_帯のほどき方はわかっても、結び方など紳一にはわからない。
_しかしそれはそれ、これはこれ。
_我が娘の愛しい晴れ姿を見納めして、帯の結び目の団子に手をかけてしゅるしゅるとほどいていった。
_それはもう紳一の理性がほどけていくのとおなじで、渦を巻きながら座敷の上に落ちていくのでした。
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