十三話
「あ──」
_つぐみはなにかを思い出して顔を上げた。
「深海さん、まだ熱が」
「それならだいぶ治りました」
「いけません、すぐに薬湯の支度をします。あと、食事もまだでしたね」
_つぐみは辺りを見まわして、そこら中に脱ぎ散らかした自分の着衣を拾い集め、「あっち向いててください」と恥じらうと、紳一の背中を見ながら服を着た。
_そしてそのまま台所のほうへと足音を響かせていく。
_女らしい人だ、と紳一は感心した。
_森南つぐみという女性に、惚れ薬でも飲まされたのだろうか。
_いや、きっと熱のせいで錯覚しているだけだ。
_僕が愛しているのは春子ただ一人。
_同時に別の女性を好きになるはずがない。
_紫乃が遺してくれた春子とようやく結ばれたというのに、森南先生のことが気になっている。
_人と人との縁というものは、なんて残酷なのだろうか。
_それは誰かを愛せば誰かを傷つけてしまう「両刃の剣」なのだ。
_そう自分の心に触れながら、春子の顔を思い浮かべていたのだった。
_おなじ時、紳一とつぐみ二人を家に残したまま出かけた春子だったが、行くあてもないまま自転車をこぎながら、今頃お父さんと先生はどうしているのだろう、と考えていた。
_初夏の陽気で少し日焼けした顔に不安がよぎる。
_つぐみから漂ってくる魅力は同性の女目線で見ても明らか。
_いくら紳一が熱で伏せっているといっても、そんな彼女に世話をしてもらったら、なにも起こらないわけがない。
_お父さん──。
_春子の胸がさわぐ。
_でも今帰ったとして、もしもその場を目撃してしまったら私はきっと堪えられない。
_そんなことよりも、もっとお父さんのことを信じてあげなきゃ。
_そんなことを思いながら自転車を軽々とこいでいくと、喫茶店の前を通りかかった。
「あれ?」
_春子は喫茶店の窓から店内を流し見て声をあげた。
_その店は未成年に平気で酒を出すこともあるということで、学生の出入りは禁止されているものの、大人を気取りたがる年頃の高校生たちが出入りするのもめずらしくない。
_そういった雰囲気の喫茶店だ。
_でも春子がそこで見たのは学生なんかではなく、もっと春子に近い人物だった。
_しかも二人。
_白髪まじりの無精ひげをあごいっぱいに生やして、むずかしい顔をしているのは、昨日、春子を犯そうとしていた養鶏場の佐々木繁だ。
_そして彼と向かい合った席に座っている人物は、吸うつもりのない火のついた煙草を灰皿に置いたまま、佐々木繁に向かってしきりになにかを話している様子だった。
「お父……さん」
_春子がつぶやいた。
_そこに居たのは、春子の亡き母親の紫乃が深海紳一と再婚するまえの夫、つまり春子のまえの父親、九門和彦だった。
_この二人が顔を合わせるのも、ずっと久しかったに違いない。
_春子が生まれるまえから、九門家と佐々木家は良い間柄がつづいていたらしく、生前の紫乃の器量の良さは隣近所どころか町の誰もが一目置いた美しさだったものだから、繁も紫乃に対してはとくべつ気前が良かった。
_そんな中、紫乃は春子を授かり、佐々木夫妻は子に恵まれなかったせいもあってか、春子のことを我が子のように可愛がってくれた。
_しかしある時から和彦の態度が変わりはじめ、どういうわけか佐々木家との関係も少しずつ疎遠になっていった。
_そうして和彦と紫乃は離婚し、紫乃と春子を置いて和彦が出ていくかたちで縁が切れたのだった。
_母親と娘ふたりきりの暮らしはけして楽ではなかった。
_それでも紫乃の人柄と器量の良さが良縁を招いて、深海紳一と出会い、結婚した。
_三人での暮らしがはじまり、人あたりの良い紳一は佐々木家や近隣の人たちともうまく交流をはかりながら、紫乃や春子に対してはあまるほどの愛情を尽くした。
_新しい父親だというのに春子はすぐに紳一になついて、紫乃もそんな二人のことを微笑ましく見守っていた。
_なにもかもが順調に運んでいたかに見えたある日、とつぜん紫乃が病にたおれ、そしてそのまま薄命のうちに生涯を終えたのだった。
_紫乃の告別式には九門和彦の姿もあったのだが、佐々木繁や紳一と交わす言葉も少なく、ただ春子とだけは笑顔を交わして「大きくなったな」と言葉をかけていた。
_しかしその目には玉のような涙を浮かべて、紫乃を亡くした喪失感なのか、あるいは春子の母への思いを読みとったのか、和彦の表情はしだいに悲しみに暮れていった。
_春子が母と最期の別れを告げたあの日のようすを見ても、その後、繁と和彦が接触することなど考えられない。
_それが今こうして二人が会っているということは、よっぽどの事情があるに違いない、と春子はよけいな詮索をした。
_春子は実の父親である九門和彦の顔を見た。
_その次に佐々木繁の顔を見て首をかしげた。
_あの時、繁に犯されそうになって怖い思いをしたのに、繁から自分とおなじ匂いがしたような気がして、瞬く間に興奮が冷めていったのを覚えている。
_あれはいったいなんだったのか。
_理由がつかない。
_まさか──。
_春子はあることを思い出した。
_それは先日、この町の墓地で起きた強姦事件のことだった。
_春子とおなじ女学校の生徒を襲ったのは佐々木繁ではないのか。
_そして次に狙われたのが自分だったとしたら、未遂に終わっているからこそまたいつか狙われるかも知れない。
_いかにも女には見境のないといった面構えをしている繁ならやりそうなことだ、と春子は思った。
_その時、不意に春子の肩をたたくものがあった。
_空を仰ぎ見てみると、どんよりとした雲から冷たい雨がおちてきて、春子と自転車と地面のあちらこちらをたたいて濡らしていった。
_雨宿りをするよりも家に帰ったほうが無難だと思い、最後に和彦の横顔だけを見届けて小雨の中を自転車で抜けていった。
_風向きによっては雨の匂いに混じって時々、畑の肥やしの匂いもしてくる。
_梅雨入りしたのね、と春子はもう一度空を見上げてつぶやいた。
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