十一話
_その日は学校も紳一の仕事も休みだったから良かったが、森南つぐみと食事をする約束がある日でもあった。
_紳一は春子に電話をかけさせて、今日は食事に行けなくなったと断ってもらった。
「お父さん大丈夫?」
「うん、季節の変わり目ってやつだ。春子は平気か?」
「私なら大丈夫。そんなことより食欲ある?なんか作るよ」
「ああ。ありがとう」
「私をお嫁さんにしたくなった?」
「それはどうかな」
「ずっとこの家に居座ってやるんだから」と春子はいたずらな笑顔を見せて、紳一はまんまとその笑顔に愛しさを募らせるのだった。
_春子は一生懸命に紳一を看病した。
_見返りなんていらない。
_お父さんのそばにいるだけで幸せだから。
_そうして紳一が寝息をたてたのを見届けると、春子は自分の部屋で勉強に勤しむのだった。
_どれくらい眠っていただろう。
_紳一は美しい歌声を聴いて目を覚ました。
_細く開いた戸をくぐり抜けてくるハミングに耳を澄ませてみると、ふしぎと体が癒されていくのがわかる。
_紳一はふたたび目を閉じて春子の歌声に聴き入っていた、その時、玄関の呼び鈴が鳴った。
「ごめんください」
_春子が玄関に出てみると、そこには買い物袋を提げた森南つぐみが立っていた。
_紳一が熱を出して寝込んでいると電話で聞いた時、それならと思い立って、見舞いついでに色々な食材を買い込んで紳一の為に食事を作りに来たそうだ。
「わざわざすいません」
「お父さんの具合どうかしら?」
「熱は少し下がったみたいですけど、まだなんとも……。中へどうぞ」
「おじゃまします」
_春子は複雑な思いで、つぐみを家の中に通した。
_お見舞いに来ただけにしては、いつにも増して森南先生は上手に化粧をしてきているわ。
_とても綺麗で、とてもいい匂いがして、やっぱり子供の私にはかなわないところがたくさんある。
_それにくらべて私ときたら、こんなにも嫉妬ばかりするなんて。
_私のブス。
「お台所、借りるわね」
「え?お父さんの様子は見なくてもいいんですか?」
「眠っているところにおじゃましたら悪いわ」
_ほんとうは紳一に会いたくて見舞いに来たつぐみであった。
_そのことは春子にもよくわかる。
_それなのにつぐみは紳一と春子の分の食事を作り終えると、紳一に会おうともせずにそのまま帰ろうとしたのだ。
_お父さんと先生を二人きりにさせるのは嫌だけど、ここまでしてもらってこのまま先生を帰すのも失礼だわ。
「あの、私これから美智代と約束があって。それで先生にお父さんのことをお願いしたいんです」
_咄嗟にくちから出た嘘だった。
「それって、私に留守番してほしいってことなの?」
「先生に居てもらえるとすごく助かります。だめですか……?」
_つぐみはしばらく春子の目を見つめたまま黙っていた。
_そうして、「いいわ、友達との約束は大事だものね」と穏やかな表情で言った。
_つぐみの手料理の味加減はとてもやさしく、春子のくちから何度も「おいしい」と絶賛の声があがると、「春子ちゃんもお世辞が上手ね」と、つぐみは上品な笑顔を見せた。
「春子ちゃんみたいな妹が欲しいわね。勉強もできるし、可愛いし」
「私も、森南先生みたいに綺麗なお姉さんが欲しいです」
「あら、彼氏はいらないの?」
「彼氏はいませんけど、好きな人はいます」
「異性交遊は校則で禁止されてるっていっても、女の子はやっぱり恋をしないとね。春子ちゃんならきっとその人とうまくいくわよ」
「そうだといいんですけど。先生はどうなんですか?彼氏とか──」
_二人は共に紳一のことを思い浮かべながら、でもそれを悟られないようにしていた。
「私はずっと片思いだし、なかなか勇気が出せない性格だから」
_つぐみのその言葉を聞いて、先生が好きな人はやっぱりお父さんなんだ、と春子は思った。
_食事のあと、春子が自転車に乗って出かけて行ってしまうと、家の中は紳一とつぐみの二人きりになった。
_静まった部屋で気持ちを落ち着かせようとするつぐみだったが、紳一を意識すると胸の高鳴りはますますはげしくときめくのだった。
_深海さん、起きているかしら。
_つぐみは紳一の部屋の戸をそっと開けて中をうかがった。
_紳一はまだ眠っているようだ。
_なるべく音をたてないように気を配りながら部屋に入ると、つぐみは紳一の横に正座して、愛しいその寝顔を見つめた。
_喉の奥が締めつけられて、そこからなにかがワッと込み上げてくる。
_好きすぎて……涙が出てしまいそう……。
_そんな思いをこらえて、紳一の額の手拭いを取り替えると、その体温に触れてふたたび感情が押し寄せてくるのだった。
_やがて紳一の寝息とつぐみの吐息が距離を近づけて、その行為を恋が起こさせた事故のせいにしたのだろう。
_つぐみは紳一にくちづけた。
_唇の重なりが火種となって、つぐみの体は女であることを主張して沸々と発情していく。
_これ以上、自分の意思で体を支えていることができない。
_つぐみは弱々しく脚をくずして、紳一に添い寝しようとした。
_その時、紳一の目がうっすらと開いて、つぐみの顔を見るなり安堵の笑みを見せた。
「森南先生、お見舞いに来てくれたんですか?」
「え……と、はい。勝手に上がりこんでしまってすいません」
_つぐみは戸惑いをあらわにしながらも姿勢を正して座りなおした。
「いい匂いがしますね」
「あの、私、深海さんのためにお昼ご飯を作ってみたのですけど、召し上がりますか?」
「それはありがたい。けど、いい匂いがするのはそっちじゃなくて、先生のほうです」
「え……?」
「その香水の匂い、僕は好きだな」
_紳一のその言葉につぐみは酔ってしまった。
_この人はいったい私のことをどう思ってこんなことを言っているのか、わからない。
「さっき夢を見たんです」
「……。夢ですか?」
「ええ、夢の中で誰かにキスされたような気がするんです」
_つぐみは目を伏せて、「そ……そうなんですか……」と言葉を濁した。
「じつは僕、先生がうちにいらした時からずっと起きていました。だからさっきの夢も、ほんとうは──」
_その瞬間、つぐみは自分がしてしまったことを後悔し、繕いきれない過ちを言葉で埋めようとした。
「すいません。そんなつもりで来たわけじゃなかったんです。それなのに私は……。どうぞ嫌いになってください」
_つぐみは息をつくのも忘れて言い訳を吐いた。
_なんて不器用な人なのだろう。
_それに、なんて可愛らしい人なのだろう。
_紳一はなにかに突き動かされるように身を起こし、つぐみの手をとり、そっと引き寄せた。
_つぐみの体がふわりと浮いて、まだ熱の冷めない紳一の胸板が彼女を受けとめる。
「嫌いになんてなれませんよ──」
_そう言ったそばで、紅くふくらんだつぐみの唇に紳一はくちづけた。
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