信じるべきは誰なのか?
そんなことは言わずとも知れている。
私が信じるべきは、何物にも代え難い家族であり、長年連れ添ってきた妻、その人だ。
決して、目の前にいる小僧なんかじゃない。
それは道義的に当然のことだし、人として当たり前のことだと言うことはわかっている。
しかし、どうしても信じ切れない自分が、やはりそこにいる。
浮気の事実を告げたとき「な~んだ、やっぱりバレてたんだ。」と、まったく悪びれた様子もなく、まるで子供がちょっとした悪戯を叱られた程度にしか受け応えていなかった妻の姿が、脳裏に残っている。
今まで見たこともない妻の態度だった。
その豹変ぶりに驚き、見知らぬ女を見ているような錯覚さえ覚えた。
あれが、私の知っている妻などとは、何があっても信じることはできなかった。
しかし、それが事実であり、紛れもない現実だった。
あの調子で、不倫の事実もあっさりと認めてしまうのが怖かった。
そして、「ごめ~ん。実はあの子は、パパの子じゃないのぉ」と、いとも容易く告げられてしまうのが怖かった。
その事実を告げられたとき、私は人として生きていられるか、自信がなかった。
いったん、もたげた疑惑は、上の娘たちまでをも疑わせる。
頭の中で、いらぬ疑惑ばかりが首をもたげては、それを無理に封じ込める作業に苦しめられた。
サトシは、飯をすべて食べきってしまうと、「一本いいですか?」と、開いた二本の指を口の前に持っていった。
平静を装ったその表情には、腹の中を探られまいとする狡猾さを必死に隠そうとするような態度に見えないでもなかった。
疑念が疑念を呼び、いらぬ邪推ばかりが、頭の中で巡り続けた。
タバコを一本取り出して、ライターごと渡してやると、サトシは火を付けて、うまそうにタバコを吸い始めた。
さっきまでの脅えた表情は、もう、どこにもなかった。
これがサトシの策略であるならば、心理戦で、私は奴の巻き返しを許したことになる。
ペースを奪い返さねば、この先何を仕掛けてくるかわからなかった。
信じるべきは、妻なのだ。
こいつじゃない。
自分の中で、無理にそう思い込ませた。
「まったく、今の話が本当のことなら、大変なことだな。」
たいして気にも止めていない風を装って、答えた。
返してきたライターを受け取り、私もタバコを取り出した。
火を付けようとして、震えそうになる指先を抑えるのに苦労した。
「僕の話を信じないんですか!?」
サトシは、身を乗り出してきて、意外そうな顔をしていた。
「君の話だけを一方的に信じる気にはなれんよ。浮気がバレての、この状況じゃ、何を信じろと言うんだ?自分が助かりたいために、あることないことを吹き込んで、女房だけを悪者にしようとしてるのかも知れないじゃないか。双方がいる場所で互いの話をこの耳で聞くまでは、どちらの話しが正しいかなどと判断はできんさ。もっとも、二人とも自分が正しいと言うんだろうがな。」
確かにそうだ。
自分で話しているうちに、まったくその通りだと思えてならなかった。
妻の不倫にしたって、疑惑の芽があるだけで、確かな証拠があるわけじゃない。
その疑惑にしたところで、こいつがさっき、さもあり得そうな話をして私に植え付けただけだ。
不倫の確固たる証拠を示した訳じゃない。
どちらが正しいかなど、まだ、誰にもわかりはしないのだ。
「僕は、嘘なんてついてませんよ!あなたが知らないようだから、親切で教えただけじゃないか!」
「そういうのをいらぬお世話というのさ。ところで、まだ聞きたいことがあるんだがな。」
今度は、こっちが巻き返す番だ。
「なんですか!?ぼくの言ったことが信じられないなら、何を聞いたって仕方ないでしょ!?」
憮然とした表情をしていた。
確かにサトシの言うとおりだった。
鼻から嘘だと決めつけて掛かるのなら、何を聞いたところで仕方がない。
だが、これだけは、どうしても確かめておきたかった。
「うちの娘を、どうやって嵌めた?・・・。」
「え?・・・」
サトシの顔色が一瞬変わるのを見逃さなかった。
もしかしたら妻は、サトシの言うように、ふしだらで、だらしのない女なのかもしれない。
避妊リングも自ら希望したのかもしれない。
しかし、そもそもの発端は、長女の万引き事件にある。
それを、どうしても確かめたかった。
「は、嵌めたって、なんですか?・・。いったい奥さんから、どんな風に聞かされたかはしれませんが、あの子が万引きをしたのは確かです。ぼ、僕が、その現場を発見して、奥さんに知らせたんですから・・・。」
「そして、脅して関係を迫った。そうだな?」
「お、脅しただなんて・・。ただ、僕は、これからのことを奥さんと話しに行っただけです。脅したわけじゃありませんよ・・・。」
「わざわざ話し合いにラブホテルを選んだわけか?」
「それは・・それは、二人きりになれるところが、そこしか・・なかったから・・・。」
最後の方は、ほとんど聞き取れないほどに小さな声だった。
だが、これではっきりしたことがある。
妻が、自らサトシに関係を迫ったわけではない、ということだ。
彼女がサトシの言った通りの女であるならば、自ら関係を迫ったとも考えられる。
だとすれば、妻の話とは真っ向から違うことになり、彼女を信じる糧も失われる。
だが、長女の万引き事件は、実際にあった。
別に妻がねつ造したわけではない。
つまり、妻の話には、まだ信憑性があるということだ。
これが、はっきりとわかっただけでも、妻を信じられる材料にはなる。
「いったいどうやって、あの子を嵌めた?」
すべてわかったような顔をして、奴を睨みつけた。
「べ、別に嵌めたわけじゃ・・・。」
「わかってるんだ。すべて話せ。それとも、またここでプロレスの続きをやるか?言っておくが、俺は強いぞ。お前のように学生時代に遊んでいたわけじゃない。」
半分は、はったりだった。
確かに学生時代は、柔道に明け暮れていた。
だが、それは20年以上も前のことだ。
さっきは、不意を突いて襲撃に成功したが、まともにやり合ったら勝てるかどうかは、五分五分と踏んでいた。
だが、喧嘩慣れしてないらしく、サトシは、こんな脅しでも効いた。
「シュンが・・・。」
ぽつり、とつぶやくように答え始めた。
「シュン?あいつが関わってるのか?」
「そうです・・。シュンが全部仕組んだんです・・・。」
全部、と言ったあたりにサトシのずるさを見たような気がした。
相手がいなければ、好き放題なことをしゃべる。
我が身が可愛いばかりに、助かるためには、他人を陥れようとする傾向が、サトシには強いのかもしれなかった。
ならば、妻の不倫話も信じられたものではない。
「いったい、シュンは何をやって、うちの娘を嵌めたんだ?」
あの子が、万引きなどするわけがない。
そう確信できるから、こいつ等が何かを仕掛けたと想像がついた。
カマを掛けたつもりだったが、やはり何かを仕掛けていた。
万引きの瞬間をムービーに収めるなど、あまりにも話が出来すぎている。
「塾の帰りに、あそこのコンビニにいつも立ち寄るのは知ってました。あの日は、暑かったからアイスクリームを買ってました。うまい具合にアイスクリームを買ってくれたんです。だから、買い物を終えて出てきたところを、シュンが呼び止めたんです。」
「うまい具合というのはなんだ?コンビニに立ち寄るのを知っていたというのは、つまり、調べていたということか?」
「はい・・・その・・どうしたら、奥さんと仲良くなれるか、考えてたときに、シュンが教えてくれたんです。娘がいるなら、いい方法があるって。それで、少しの間、お嬢さんを尾けて、行動を調べました・・・。」
つまり、時間を掛けて、念入りに調べ、タイミングを図っていたわけだ。
巧妙に仕組んでいたということになる。
「うまい具合というのは?」
「アイスクリームなら、手から放せませんから。」
「どういうことだ?」
「それは、今から話します。お嬢さんがアイスクリーム片手に店から出てきたところを、シュンが、ちょっと、お願いがあるんだけど、って呼び止めました。お嬢さん、訝しげな顔をしてましたよ。」
そうだろう。あの子には、知らない男と口をきくな、と口が酸っぱくなるほど言って聞かせてきた。
「でも、シュンは、口がうまいからお嬢さんも仕方なく、黙って言うことを聞いてました。」
「シュンは、なんて言ったんだ?」
「彼女にプレゼントしたいけど、男が買うのは恥ずかしいから、コンビニに戻って口紅を買ってきてくれないか?って、頼んだんです。そして、返事を聞く前に、お金をお嬢さんのポケットの中に入れました。お嬢さん、左利きですよね。だから、右側のポケットの奥に突っ込んだんです。」
「ん?右とか左とか、何か関係があるのか?」
「簡単なことです。お嬢さん、アイスクリームを左手に持ってました。コンビニに戻って、口紅を買うとしますよね。左手は塞がってるわけだから、どっちの手で口紅を掴みます?」
「そりゃ、右手だろう。」
「そうですよね。そして、お金は、どっちのポケットにあります?」
「右側だろ?さっきそう言ったじゃないか?」
「ええ。その通りです。右手に口紅を握って、お金を出すために右のポケットに手を入れた。ここまで言ったら、もう、わかりますよね。」
ああ!なるほど!そういうことか!
ポケットにある金を取り出すために、賞品を握ったまま、何も考えずにポケットに手を入れたのだ。
左手は塞がっていたのだから、どうしても、そうなる。
それは、つまり、知らない第3者から見れば、万引きをしているように見える。
「わかりましたか?僕は、それをずっと棚の影から、ケータイで撮ってたんです。そして、ポケットに手を入れた瞬間に、万引きだ!って、大声で騒ぎました。お嬢さん、最初は自分のことじゃないと思っていたらしいです。でも、そこでバイトしてた友達が、お嬢さんを捕まえて、必死に違うって言ってましたけど、警察に連れて行くって言ったら、すぐに泣き出しました。その時には、シュンなんてどこにも居なくて、どうすることも出来なかったんです。」
最後は、見事だろうと言わんばかりに、得意そうな顔までしていた。
ファミレスの中に、他の客がいなかったら、その場で何も考えずに、サトシに襲いかかっていたことかもしれない。
どれだけ、あの子が怖い思いをしたかと思うと、居たたまれなかった。
どれ掛け、悔しい思いをしたかと思うと、可哀想でならなかった。
ふと、あの子が、たとえ自分の子供でなくても、ずっと育てようと思った。
私の怒りが伝わったのか、サトシは口を噤んだ。
つまりは、想像通り、巧妙にこいつ等に嵌められたわけだ。
「そこまでして、俺の女房が欲しかったのか?・・・。」
声が震えているのが、自分でもわかった。
サトシは、俯いたまま答えなかった。
「うちの娘まで、使いやがって・・・。」
「あ、あれは、シュンが!」
弁解がましく顔を上げたが、怒りに満ちた私の顔を見た途端に、また顔を俯かせた。
「シュンじゃねえ・・・。お前だ。お前が俺の家族を嵌めたんだ・・・。」
「す、すいません・・・。」
「まだ、やめるつもりは、ないのか・・・。」
「そ、それは・・・僕じゃなくて、奥さんに聞かないと・・・。」
「なぜだ?」
「ぼ、僕が強要してるわけじゃなくて・・・その・・奥さんが勝手に・・。」
「まだ、そんなことを言うのか!?」
「嘘じゃありません!僕は、もう、どうでもいいんです!こうしてバレちゃったわけだし、はっきり言って、僕だって奥さんとは、もうやめたいです・・・・。でも・・・奥さんの方が・・・。」
「そうか・・。あくまで女房のせいだと言いたいわけだな。ならば、女房本人に聞こう。」
その場で、ケータイを開いた。
発信履歴から、妻の名前を探し出し、ボタンを押した。
何度目かのコールのあと、妻が出た。
(あ、あなた・・・。大丈夫なの?・・。サトシ君は?)
スピーカーから、不安げな声がすぐに聞こえてきた。
「ああ、俺は何ともないよ。坊やも目の前にいるよ。」
(今、どこに居るの?)
「近くのファミレスさ。そこで坊やと飯を食ってるよ。ところでな、お前に話がある。坊やは、お前との関係をやめたいそうだ。」
(え?・・・そ、そう・・・。仕方ないわね・・・。)
心なしか、寂しそうな声だった。
「お前は、それでいいのか?」
(いいもなにも・・・。向こうがやめたいって、言ってるなら、仕方ないじゃない・・・。)
確かにその通りだ。
「未練は、ないんだな?」
(ないわ。でも、ビデオはどうしよう?返してくれるの?)
もっともな心配だ。
妻の痴態を収めたビデオは、まだこいつ等の手中にある。
「それは、これから行って奪い返してくる。だから、帰りは遅くなると思う。ところで娘たちは、みんな帰ってきたか?」
なぜか、ひどく子供たちの顔が見たくてならなかった。
(う、うん・・・。みんな、居るけど・・・。)
「そうか。子供たちを頼む。お前はあいつ等の母親なんだ。ちゃんと面倒見てくれ。」
(そんなこと、言われなくてもわかってるわ。じゃあ、帰りは遅くなるのね。夕方からだと、帰りは6時くらいになるのかしら。先にご飯食べさせちゃうわよ。)
こんな時にも、子供たちの飯の心配か。
さすがに母親なのだと、思わず笑みがこぼれた。
「時間は、何時になるかわからん。だから、先に飯を食わせておいてかまわないよ。こっちのことは心配するな。ちゃんとビデオも持って帰る。それで、すべて終わりだ。これからは、また、元の生活が始まるのさ。」
(うん・・・。)
「じゃあ、切るぞ。」
(うん。)
妻の声を聞くと、ホッとするのはなぜなのか?
それはまだ、私の心が妻の中にあるからだ。
こんなことは、犬に噛まれたようなものだ。
たいしたことではない。
本心から、そう思えた。
妻さえ戻ってくれれば、すべてが、やり直せる。
なぜか、この時の私には、そう思えてならなかった。
サトシとの別離を妻の口からはっきりと確かめることが出来た。
それが嬉しくてならなかった。
サトシは、上目遣いに私たちの会話を眺めていた。
「女房もいいそうだ。お前さんと別れるとさ。」
「嬉しそうですね。」
思わず表情に出ていたのかもしれない。
「浮気をやめるとはっきり言ったんだ。お前さんだって、未練はないだろう?」
「はあ。」
「なら、喜んでもおかしくはないだろう。」
「幸せな人ですね。」
「なんだと?」
「いえ、何でもありません・・・。まだ、時間がありますけど、どうしますか?」
さほど、時計は進んでもいなかった。
まだ、14時半にもなっていない。
向かうのは、16時だ。
「お前さんと、このまま黙って面を合わせてるってのも、あまり気分のいいものじゃないな。」
「だったら、お代わり頼んでいいですか?」
「ああ?」
「腹が減っちゃって・・・。黙ってるよりは、いいと思いますけど。」
「勝手にしろよ。」
サトシはウェートレスを呼ぶと、違ったメニューを注文した。
私は、新しいタバコを取り出した。
今日ですべてを終わらせる。
タバコに火を付け、目の前の小僧を眺めながら、心の中で、固く誓っていた
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