ここのところの精神状態は、急激な上がり下がりを繰り返すジェットコースターのようなものだ。
浮気の事実を突きつけられ、平穏な家庭から、一転地獄に突き落とされて、途方に暮れたかと思えば、奪われたものが惜しくなって、また取り返したくなった。
それは、いったん取り返したかに思えたが、また、すっと手元を離れて、逃げられてしまう。
これから、どうすべきかと迷いもしたが、今度は、寛容さを示して受け入れようと試みた。
それは事実、成功したかに思えたし、心は、まだ私にあると確かめることもできた。
しかし、やはり納得はしないのだ。
どうしたって、心は納得してくれない。
なぜ、私の妻であることだけに我慢ができないのか。
なぜ、昔のように私だけを見ようとしないのか。
なぜ、こんなガキをかばうのか・・・。
始まりはどうであれ、あいつの心は変質してしまった。
豹変してしたと言ってもいい。
いったい、あいつの真意はどこにある?
本当の心は、誰にある?
今の私には、そればかりが気掛かりでならない。
ファミレスから、サトシに電話を掛けさせた。
シュンとテッペイの二人にだ。
二人とも大学に行っていた。
学生なのだから、当たり前のことだ。
サトシだけが、暇を見つけては、バイトに明け暮れている。
あまり優秀な生徒ではないのだろう。
もしかしたら、心変わりしないように妻を監視しているのかもしれない。
それとも、新たな獲物でも物色しているのか。
大事な話があると、サトシには、それだけしか言わせなかった。
もちろん、私のことは伏せさせた。
二人が履修している講義は15時に終わるという。
16時に、テッペイのマンションで落ち合うことになった。
まだ、待ち合わせまでには、2時間ほどの余裕があった。
サトシは、ケータイを閉じると、安堵したのか、冷めきった飯を食べ始めた。
金はいらないと言ったことが、彼をすっかり安心させたようだった。
3人になれば何とかなるかもしれない、などと腹の中では、高を括っているのかもしれない。
さっきまでの慌てふためく姿は、すっかりなりを潜めて、サトシの食欲は旺盛だった。
タバコを吹かしながら、まんじりともせず、目の前の子供を眺めた。
確かに、男前の顔立ちはしている。
背も高く、この男に心惹かれる女は多いのだろう。
だからこそ、わからない。
なぜ妻なのだ?
なぜ同年代の若い女たちではなく、なぜ年上の人妻なのだ?
「なあ・・。」
理由を聞いてみたくなった。
「ふぁい・・。」
口に詰め込んだまま、サトシが顔を上げた。
「君が、私の妻を選んだ理由はなんだ?」
煙を吐き出しながら訊ねた。
口の中のものを飲み込むと、サトシは答えた。
「理由・・ですか?やっぱり、きれいだから・・だと思いますけど・・・。」
亭主の前で、狙いを付けた理由を語るのは、さすがにはばかれるのか、サトシはバツが悪そうな顔をしていた。
「きれいだけなら、他にも居るだろう?君ならば、同い年くらいの子だって、幾らでも口説き落とせるんじゃないか?」
「はあ・・でも、あいつ等、金が掛かるから。」
単純明快な答えだった。
「人妻は、金が掛からないか?」
「ええ・・まあ、そうですね。どこかに遊びに連れて行けとか言わないし、プレゼントとかも、そんなに気にしなくていいし・・・。」
「金が掛からない、手頃な女だったから、俺の女房を選んだわけか?」
「いや、それだけじゃないですけど・・・。」
「女房程度の女なら、他にも居ただろう?」
妻から聞いた話では、配送センターには、日替わりで30人程度のパートタイマーが居るということだ。
ほとんどが、人妻であり、20代から50代までと幅広い。
だが梱包や仕分けの作業は、意外な重労働らしく、いざ働き出しても、歳の行った主婦たちは、すぐに根を上げて消えていくのだそうだ。
だから、会社側でも、できるだけ若い主婦を選ぶ傾向があるらしく、まだ37歳ではあるが、古くから働いている妻などは、もはや古参の古株にあたる。
残っているのもほとんどが、若い人妻ばかりということだから、妻よりも若い人妻など、あの職場には幾らでも居たはずだ。
「奥さん、やさしかったんです・・。」
サトシが、目の前の皿をじっと見つめながらつぶやいた
「やさしかった?」
「はい。すごく気遣いのしてくれる人で、たまに弁当なんかも作ってきてくれて・・・。俺が、金のない学生だって、知ってたから・・。それが、すごくうまくて、うれしくて、それで・・。」
「好きになったわけか?」
「はい・・・。」
はい、と答えたときだけ、私の目を見た。
その表情に、嘘はなさそうだった。
「そのわりには、ずいぶんと非道い扱いをしているじゃないか。みんなに輪姦させたり、脅したり・・。今日だって、あいつをメス豚と呼んでいたが、好きな女に言える言葉とは、とても思えんがな・・・。」
好きなわりには、やっていることはデタラメだ。
私がそう切り返すと、サトシは返す言葉がないかのように俯いた。
しばらく、俯いたままだった。
「なんか・・思ってたのと、違って・・・。」
また、俯きながら答えた。
「違うって、何が?」
「最初は、やさしいし、きれいだし、こんな人が彼女だったら最高だ、なんて思ってたんですけど・・・。その・・・、なんか違うって・・すぐに思えてきちゃって・・・。」
「違うって、何が?」
「ご主人の前で、なんですけど・・・あんなふしだらな人だとは、思ってなかったから・・・。」
「それは、お前たちのせいだろう!?お前たちが、私の妻を変えてしまったんだ。」
そうだ。こいつ等が私の妻を変質させた。
こいつ等さえ居なければ、彼女はまだ、貞淑な人妻で居られたはずだ。
「確かに、僕たちのせいもあるかもしれないけれど、でも、それだけじゃ、ないような・・・。」
「なにが?」
サトシは、しばらく考えるような顔つきになった。
「あの、たぶんですけど・・・。」
「なんだ?」
「奥さん、虚言癖があると思います。」
「虚言癖!?」
「ええ・・・。じゃなきゃ、二重人格か・・・。」
言うに事欠いて、盗っ人猛々しいとは、このことだ。
「何をばかなことを言ってるんだ。」
あいつに限って、虚言癖などあるわけがない。
ましてや、二重人格など、映画やドラマの見過ぎだ。
「でも、やっぱりそうとしか思えないです。マンションに行って、みんなでしているところを見たらわかります。これが、同じ女性なのか、って思えますから・・・。」
「だから、それはお前たちが!・・・。」
「奥さんが!」
怒鳴りつけようとした私を、サトシが遮った。
「奥さんが、ずっと不倫してたって、知ってますか?・・・。」
じっと、私の目を見つめていた。
「ああ!?」
意外な問いかけに、一瞬脳が麻痺した。
「不倫だと?・・・。」
「ええ、奥さん、ずっとうちのセンターの上役と不倫してたんです。やっぱり、知りませんでしたよね。」
「そんなばかなこと・・。」
「僕も初めて聞いたときは、そう思ったし、あの奥さんからは意外だったから、驚きもしました。でも、本当のことです。奥さん自身が、僕に教えてくれたことですから。」
「あいつが君に教えたって?」
「はい。奥さんが僕に教えてくれたんです。奥さんが避妊リングを入れてるって、知ってますか?」
「あ、ああ・・。」
こいつ等が、長く弄ぶために、妻に避妊リングを入れさせた。
「その時に、僕に教えてくれたんです。その上役と、ずっと不倫してたらしいんですけど、途中で子供ができちゃったらしくて、そんなのは面倒だから、次は失敗しないように避妊リングを入れたいって。なんか、前はピルを飲んでたらしいんですけど、身体に合わないらしくて、頭が重くなるから、それで飲まなかったら、失敗しちゃったって、奥さん笑ってました。それで、ピルの変わりに今度は避妊リングを入れたいから、遊びたいならお金を出してくれって、奥さんにそう言われたんです。避妊リングを入れたら、好きなだけ中出しできるわよ、って奥さん楽しそうに笑ってました・・・。そうされた方が奥さんも好きみたいです。でも、僕は、そんなお金なんかなかったから、友達に相談してみるって言ったんです。」
友達とは、おそらくテッペイのことだろう。
「そうしたら、奥さん、なんて言ったと思います?お金を出してくれるなら、その子にもさせてあげるから、って言ったんです。その方がお金も借りやすいでしょ、って・・・。なんか、それを聞いたときには、もう、イメージが崩れちゃって、ほんと、裏切られたって感じです。だから、途中からは、どうでもよくなっちゃって、それで・・・。」
なんだそれは?
まったく、妻の言っていることと違うではないか。
サトシの話には、正直戸惑いを覚えた。
真っ向から、その話を信じたわけではなかった。
だが、今の話の中で思い当たることがないわけでもなかった。
妻は、よく頭が痛いと、こめかみを押さえていることが多かった。
食事の最中や、ちょっとした時にも頭を痛そうにしているので、病院に行けと言ったことがある。
妻は、大したことじゃないから心配ない、といつも笑って答えるだけだった。
だが、はじめから頭痛の原因がわかっていたのなら、病院へなど行くはずもない。
「その上役とは、まだ付き合いがあるのか?」
唇が、かさかさに乾いていくのがわかった。
「いえ。去年、異動になって、それで別れたみたいです。」
そして、今度はこいつ等というわけか・・・。
上役との不倫だけでもなくなっていると聞いて、ホッとしたのも束の間、今度は、寒いものが背中を走り抜けた。
「何年くらい関係があったんだ?」
不倫の間に子供ができたと言っていた。
妻が、今の職場に働き出したのは6年前だ。
「さあ・・・詳しいことは知りませんけど、長かったみたいです。勤め始めて、すぐに関係を持つようになったって、言ってましたから。」
勤め始めてすぐと聞いて、恐ろしい考えが頭の中に生まれた。
「途中で、子供ができたと言ってたが、その子供は?」
堕ろしているのなら、まだ救われる。
だが、そうでないのなら・・・。
私の顔つきを見て、サトシは悟ったようだった。
ひどく困ったような顔をしていた。
こんな時でも、サトシは私を気遣っていたのかもしれない。
視線は右へ左へと流れて、決して私の顔を正面から見ようとはしなかった。
「その子供はどうしたんだ?堕ろしたのか!?」
厳しく詰問するように訊ねていた。
叱責されて、ようやくサトシは、バツが悪そうに答えた。
「産んだって、言ってました・・・。それで、3年近くも遊べなかったから、もうピルはこりごりだって・・・。」
一瞬、目の前が真っ暗になった。
上の娘たちが幼稚園や小学校に通えるようになったのは、今から6年前だ。
自分の自由になる時間ができるようになると、妻は、すぐにパートを探し始めた。
その頃は、円高の煽りを食らって、我が社の成長も停滞していた時期であり、課税ばかりが増えて、給与はいっこうに上がらず、娘たちへの出費もかさむようになって、苦しくなってきた家計を助けるために、妻は、働きに出ることを考えたのだ。
そこに、タイミングよく、あの配送センターが完成した。
すぐに募集に応募したのは、言うまでもない。
似たような環境であったママ友の奥さんたちと連れだって、何人かで面接に向かい、二人とも合格したときには、満面の笑みを浮かべて喜んでいたものだ。
だが、勤め始めて1年もした頃に、妻が三女を身籠もった。
やむなく一度は辞めはしたものの、また三女が学童保育に入れるようになると、妻は、同じ職場に復帰して、現在に至っている。
しかし、今考えれば、そこには解せないことがある。
いくら経験者とはいえ、妻の復帰はあまりにも簡単すぎた。
面接も何もせず、電話一本だけで事足りたのだ。
それは、私自身が隣で聞いていたのだから、間違いのない事実だ。
妻は、私に仕事への復帰を相談したとき、居間の電話から職場へと掛けた。
知り合いであるらしい上役の名を告げ、彼に取り次いでもらうと、また戻りたい旨を伝え、それは呆気なく承認された。
すぐに仕事が決まって、喜んでいたこともあり、その時の私は、あまり深くも考えもしなかった。
だが、昨今の不景気で競争率は高かったはずであり、ましてや、妊娠という、個人の勝手な事情で戦列を離れた妻を、企業側が簡単に受け入れたことは、今思えば、どうにも理解しがたい。
妊娠などというのは、防ごうと思えば防げる事象であり、生産を計画する企業側としては、迷惑なことこの上ない身勝手な行為でしかない。
だから、通常であるならば、出産によって職場を離れた者は、いったんその職を離れたら、容易には戻ることが許されない仕組みになっている。
企業側は、あてにできない戦力と評価して、再雇用するなどは、余程のことがないかぎり無理な話なのだ。
だが、妻は、それを呆気ないほどにやってのけた。
不倫の関係にあった上役のコネを使ったと考えれば、それも納得できる。
もしかしたら、あの時応対に出た上役が、不倫の相手だったのかもしれない。
そして、妻は、その不倫相手の子供を身籠もった。
何食わぬ顔で出産し、その子を私の育てさせたのだ。
サトシの話が事実ならば、そういうことになる。
悪寒とも痺れとも言えない震えが、身体に取り憑いていた。
サトシは、言うだけ言ってしまうと、また何事もなかったように飯を食べ始めた。
虚言癖、二重人格という言葉が、ぐるぐる頭の中を巡った。
あれほど、何事もなかったような顔で、今まで普通の生活をし、私たちを騙し続けていたのなら、まさしく妻は異常な虚言者であり、二重人格を疑われても仕方のない性格をしている。
いったい、誰が真実を話しているのだ?
私は、誰を信用すればいいのだ?
もう、私には、何がなんだか、わけがわからなくなっていた。
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