痴情のもつれの果ての殺人事件。
在り来たりな事件ではあるが、金属バットで不倫相手の現役大学生を僕殺したというのは、いささかインパクトがあったらしく、実況見分のために所轄の警察署から連れ出された時は、意外と多くのメディアが集まっていた。
もはや、はるか昔の話しではあるが、一時期は、テレビでも騒がれたようだから、記憶の片隅くらいに残っている人は、まだいるかもしれない。
私に下された判決は、懲役8年の実刑判決。
頭部をバットで破壊した残虐性が争点となり、検察側は、起訴状で12年の実刑を求刑してきたが、こちらも暴行されたのは事実であり、また偶発的で計画性がなかったことや、それまでの事件に至る経緯、その背景、そして日頃のまじめな素行ぶりなどが考慮され、裁判では、情状酌量も加わり、量刑は思ったよりも軽いものにとどまった。
もちろん控訴はせずには、私は、一審の判決を素直に受け入れた。
被害者は、物言わぬ物体となり果て、加害者は、饒舌にありのままを繰り返す。
死人に口なしと言われるが、まさしくその通りで、やりようによっては無罪さえ勝ち取れたのかもしれないが、私は、そうはしなかった。
サトシが、5人兄妹の長男で、苦学の末に大学に入り、そして年老いた両親の面倒まで、彼がみていたことは、起訴が確定して、警察で取り調べを受けている時に、担当した刑事が教えてくれた。
元々身体の弱かった母親は、頼りにしていた息子を突然に失い、悲嘆に暮れるあまり、倒れて入院してしまったそうだ。
その治療代さえ、まともに払えるかどうかもわからないほどに、サトシの実家の財政状況はひっ迫していて、家族にしてみれば、サトシは、たったひとつの希望の星であり、彼らの救世主であった。
その命を奪ってしまった私は、彼らからすれば、やはり許せない存在であるのだろうし、自分としても罪を償うことで、それなりにけじめをつけたかった。
無論、私とてある意味では被害者であり、サトシがこれまでしてきたことを、双手を挙げて許すつもりにもなれなかったが、幾ら憤怒に駆られたからとはいえ、奪わなくてもいい命を唐突に奪ってしまったことは事実であり、無益な殺生に、後悔していたことも、また確かだった。
あまりにも、多くのものを傷つけ、そして、あまりにも多くのものを失った。
だが、これは地獄の始まりに過ぎず、それからも、私はサトシの残した遺産に苦しめられるのだった。
控訴しない旨を、担当していた国選の弁護士に伝えると、年老いてパッとしない彼は、心なしかホッとした表情を見せていた。
控訴などすれば、また膨大な時間を事務的作業に費やすことになる。
それを彼は望んでいなかったし、もちろん私も望んでいなかった。
この弁護士が、取り調べもほぼ済んで、後は一審で審理を待つばかりとなった私の元に、一枚の紙を携えてやってきたのは、事件から3ケ月ほどが過ぎた頃のことだった。
接見室で向き合った被は、「これを奥様から・・」と、さも辛そうな表情を見せて、離婚届を私の前に差し出した。
その書面には、ぽっかりと空いたような空欄の隣りに、妻の名前と押印がしてあった。
愕然とはしたが、無理からぬ話ではあるから理解もした。
世間の耳目を集めるに十分な、スキャンダラスな不倫殺人事件に、マスコミは容赦なく食らいつき、加害者家族の人権などそっちのけで、大挙して我が家に押し寄せた。
地元は騒然となり、当然のように家族は、あの家から出ることができなくなって、まだ起訴さえもされていなかった勾留延長中に、被女たちは、逃げるように何処かへと引っ越した。
それは、この弁護士から聞いて知っていた。
あの日以来、私は、妻と会っていなかったし、彼女の声を聞いてもいなかった。
彼女は、一度として面会にはやってこなかったし、妻のみならず、娘たちも顔を見せることはなかった。
犯罪者となった私の元にやってきたのは、この老弁護士と、やはり年老いた私の両親くらいのものだった。
寂しいとは思ったが、あの惨劇とその後の状況を考えれば、やむを得ないと認めざるを得なかったし、やはり時間も必要かと思えた。
だから、無理に家族に接見を求めたりはしなかったし、離婚届を突きつけられた時は、さすがに悲しくもなったが、来るべき時が来たかと、どこかで諦めた気持ちも強かった。
法律上の縁が切れたからといって、娘たちとの血縁までが切れるわけではない。
家族の絆とは、そんなに簡単に断ち切れるものではなく、時間を掛ければ必ず修復できるものだと信じていた。
しかし、私の思惑とは裏腹に、妙な知らせが耳に届いたのは、拘置所に収監されてから、一年が経とうとしていた頃だった。
久しぶりに接見にきた両親が、不安げな顔で私に告げてきた。
孫たちと連絡が取れない。
どこにいるのか、わからないというのだ。
逃げるように引っ越したのは、彼らも知っていた。
しかし、その引っ越し先がわからないと、泣きそうな顔で告げるのだった。
何を言っているのか、と叱りつけた。
勾留延長中に引っ越したのだから、妻たちが家を出てから、すでに一年が過ぎようとしていた。
その間、連絡は取り合っていなかったのか?と、私は、睨みながら年老いた母を問い詰めていた。
私の問いに、母は、ばつが悪そうに顔を俯かせ、一度だけ電話で話したことがあるだけで、それ以来、まったく連絡を取り合っていない、と素直に白状した。
母からしてみれば、妻は、この事件の発端を作った張本人であり、大事な息子の人生を破滅させた稀代の悪女というわけだった。
たった一度だけ電話をしたというその内容も、母の口ぶりから察する限り、ほとんどが罵倒のように思われた。
いずれは、確かめればいいとくらいにしか思っていたらしく、私の両親は、妻たちの引っ越し先を、ずっと確認していなかった。
妻の携帯電話の番号は知っていたから、久しぶりに孫の声を聞きたくなり、電話を掛けてみたのだが、まったく繋がらないのだという。
それがふた月ほど続き、いよいよおかしいとなって、何か知らないかと、両親は、私の元にやってきたのだった。
檻の中にいれば時間は止まり、世界も止まる。
彼らに知り得ないことが、囚われの身である私にわかるわけがない。
弁護士に訊いてみろと訪ねさせたが、彼も妻たちの居所については知らなかった。
公訴提起が終わり、公判手続きが始まったばかりで、まだ私の裁判は開かれていなかった。
審理が始まっていないのだから、当然、妻は、証人として喚問される可能性があり、そんな重要な証人の居所を知らないとは、開いたロが塞がらなかったが、離婚届のやりとりや証言の裏付けは、彼の事務所で行ったらしく、また、新たな住居として教えられた引っ越し先も、聞いて知っていたから、すっかりそれを信用しきって安心していたようだった。
しかし、教えられていた住所に、妻たちの姿はなかった。
弁護士の彼は、半年ほど前から、その事態に気付いていたが、最悪のケースを懸念して、それを私に伏せていた。
つまり最悪、心中の可能性があったわけで、それを知ることによって私の内面に変化が起こることを、彼は嫌ったのである。
検察側でも、やはり妻の所在を掴んではいなかったが、こういった不倫絡みの事件の場合、どちらかが雲隠れしてしまうのは、よくあることらしく、捜査初期の段階で、起訴に至るための裏付け証言は、十分に取ってあったから、さほど重要な証人と位置付けていなかったらしく、たいした問題ともなっていなかった。
私が、素直に供述を続けたことが、妻の存在を希薄にしていったのである。
事件の発端になった張本人とはいえ、彼女は、殺人そのものには、何ら関係していなかった。
あの現場にさえも、存在していない。
私の供述では、そうなっていた。
サトシを撲殺したあの日、テッペイの配慮で、妻は、うまく逃げおおせることができた。
警察に通報する前に、服を着せて、自宅へと帰したのだ。
ここに女は、いなかった。
いたのは、私とサトシとテッペイの3人だけだ。
不倫が発覚して、サトシと私は、決着を試みることにした。
話し合いの場として、サトシの親友であるテッペイの部屋を借りることになった。
結局、話し合いは平行線を辿ったまま埒があかず、次第に興奮していったふたりは、とうとう最後には、殴り合いのケンカを始めてしまった。
腕力で勝るサトシは、一方的に私を殴り、血塗れになった私は、恐怖から逃れるために、たまたま部屋にあったバットでサトシを殴った。
無我夢中でバットを振っていたので、どういった状況でバットがサトシに当たったのかは、わからない。
気が付いたらサトシは死んでいた。
それが、連行されてから、私が警察に話した内容だった。
その供述を裏付けるように、事情聴取に応じたテッペイは、まったく同じことを警察に話した。
茫然自失としている私に代わり、やってきたばかりの警察に些細な状況を説明したのも、また彼だった。
私だけの証言なら信用性はないが、テッペイは、サトシの親友だった。
不倫とはなんの関係もない、部屋を貸しただけの善意の第三者でしかない。
その彼が、証言するならば、それが事実であった。
真実と事実は、また違うものなのだ。
私にすれば、妻を巻き込みたくない思いが強かった。
妻を庇うよりも、子供たちから母親を奪いたくない気持ちが強かった。
子供たちの母親が晒し者にされ、糾弾されるのを恐れた。
元凶ではある。
夫の目の前で性交に及び、痴態を見せつけた挙げ句、逆上した夫が、不倫相手を撲殺した。
ありのままに全容を明かせば、これまで悪辣な手段で玩具にされてきた人妻たちとの関わりや、多くの学生たちの悪行までが、すべて暴露することになる。
複雑な人間関係は憶測を呼び、邪推が生まれて、ことによっては、妻は共犯と見なされ、犯罪の計画性さえ疑われてもおかしくはなかった。
そんなことになれば、妻は、おいそれと警察からは解放されないだろう。
それが私には、怖かった。
逡巡はあったが、テッペイの「大丈夫ですよ。奥さんのことは心配しないでください。僕の言うとおりにやれば、奥さんが捕まることはありませんから。」の「捕まる」一言が、私に決断させた。
やはり子供たちから、母親は奪えない。
テッペイとシュンのふたりにしたところで、今までの悪事が露見すれば、一生を棒に振りかねなかった。
煩わしい揉め事には、巻き込まれたくないのが、本音のところだったろう。
善意の第三者でいる限りは、彼らが肩入れしてきた悪行の数々は露見しないし、警察の手も及ばないことになる。
私と彼らの利害は一致した。
我々は、口裏を合わせて、事実の隠蔽を図ったのだ。
テッペイは、実に落ち着いていた。
証言と状況が整合するように、裸だったサトシに服を着せ、それまでの性行為などなかったかのように、妻の痕跡を手早く消し去っていった。
頭にバットが刺さったままだったサトシに、いかにも乱闘した後のようにシャツを引き裂き、それを羽織らせた。
濡れたタオルでペニスを丁寧に拭いさえしたのは、解剖を考えたからに違いない。
さらに家宅捜索まで視野に入れて、大量にあったDVDや撮影機材を段ボールに詰めて、それをシュンと着替え終えて、顔を青ざめさせていただけの妻に運ばせた。
見事に理詰めの状況を作り終えてから、4人は、口裏を合わせ、妻は、シュンとマンションを抜け出すと、自宅へと逃げ帰ったのだった。
警察へは、テッペイが通報した。
そこまでに要した時間は、1時間も掛からなかった。
実に手際がよかった。
まるで、そうなることを予測していたかのようだった。
そうだ・・・。
奴は、予測していたのだ。
そうなることを予測していたから、そんなことができた。
殺人事件の現場なのだ。
目の前には、潰れたトマトのようにグシャグシャになった親友の頭がある。
本当なら、狼狽え、脅え、錯乱するのが、人間の性というものだ。
だが、奴はそうはならなかった。
シュンもだ。
ふたりには、あらかじめ、私がサトシを殺すであろうことがわかっていた。
だから、狼狽えがなかった。
私が、」サトシに殺意を向けるであろうことを知っていた。
いや、期待し、そのように誘導したのだ。
テーブルの上には、無造作にナイフがあった。
転がされていたすぐ横には、金属製のバットが立て掛けられていた。
あの臆病で腰抜けのサトシが、それらを使って私に襲いかかってくるとは、到底思えない。
状況を作ったのだ。
殺人を期待できる状況を作り上げ、奴は、巧みにそこへと私を誘導したのだ。
リビングに入った時は、サトシの背中は、確かに私の前にあった。
だから、私の後頭部をサトシが殴れるはずがない。
シュンは、殴っても蹴ってもいないと言っていた。
それが本当であるならば、では、いったい誰が私を殴ったのだ?
テッペイは、突然サトシに反目すると、おもむろに私に近づいてきて、縄を解いた。
縄を解くことで、サトシが孤立し、仲間がいないことを、暗に私に教えてくれた。
仲間がいなくなれば、反撃に転じるのは道理だ。
邪魔をする者がいないのだから、一対一の勝負に持ち込むことができる。
腕力では五分五分かもしれないが、道具があれば、はるかに勝てる確率も高くなる。
殺傷能力の高い武器であるなら尚更のことだ。
それは、私のごく身近なところに置いてあった。
当然のように手に取った。
怒りは頂点に達している。
目の前で妻を弄ばれた。
あの子たちの母親をメスブタと呼んだ。
人様の女房の中に無造作に吐き出し、こともあろうか、その陵辱の証を、夫の顔の上にぶち撒けた。
殺されたところで仕方がない。
人間を狂気に変えても仕方がないことを、サトシはしたのだ。
バットを握っていても、それを凶器とは思わなかった。
正義の鉄槌を下すための刃だと思った。
正義は我にあった。
だから、悠々と大きく振り上げた。
かつてない力を感じていた。
一刀両断に切り落とすように振り下ろしていた。
手応えはなかった。
手のひらには、何も感じたりしなかった。
気が付けば、サトシは眼球が飛び出し、脳みそが飛び散るほどに、頭が真っ二つになっていた。
やっと、害虫を駆除した。
あの時の私は、心底血に染まるサトシを見つめながら、そう思っていた。
しかし、サトシは害虫ではない。
人間だ。
親も兄妹もいる、人そのものだ。
熱があり、情があった。
決して虫などではない。
私は、誰かにサトシが虫だと思い込まされたのだ。
サトシを害虫だと思い込まされ、この手で駆除するように仕向けられた。
それは、私の身近なところにいた。
そして、そいつを後ろで操っていた奴が、確かにいた。
初犯で模範囚ということもあり、刑期は1年短縮されて、私は7年で出てくることができた。
未決勾留期間も合算されるので、ちょうど7年が経っていた。
監房の中で、天井を見上げながら、日々考えていたのは、やはり、家族のことだった。
失われた家族は、まだ見つからず、どこで何をしているのか、まったくわかりもしなかった。
それにしても、なぜ妻は、あれほどに豹変し、私を裏切ることになったのか、考えれば、考えるほどわからなかった。
しかし、考え抜いた挙げ句、最後に、辿り着いた答えは、しごく簡単なものだった。
おそらく、彼女の浮気には、私の存在など関与していない。
妻は、彼女の事情で、そうならざるを得なかった。
ただ、それだけだ。
そして、その答えが正解であるのを裏付けるように、出所してすぐに、沢渡というジャーナリストが、私の元を訪れた。
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