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1:堕ちる新妻1
投稿者:
まさ
高田里美は、去年の冬に結婚をしたばかりの二十六歳。結婚してまだ半年、共働きをしているせいかまだ「人妻になった」という実感もあまりなかった。結婚をしたら勤めている銀行を辞めて専業主婦になろうと思っていたのだけれど、入社してまだ三年にもなっていなかったし上司の説得もあってそのまま職場に残ることにした。もちろん経済的な理由もある。
新居には新築のマンションの二階にある一室を借りた。二人で新居を探すとき、都内の狭いアパートより郊外の広いマンションの方がいい、と話し合って決めたのである。家賃も手ごろだったし、駅からも近い。 初めは慣れなかった結婚生活にもだいぶ慣れてきて、最近は生活のリズムというか日々の暮しの勘が掴めてきたように思える。不満らしい不満といえば会社までの通勤時間が長くなったことと夫の帰りが遅いことぐらいで、経済的にも余裕はあったし、夫婦仲も結婚当時と変わらず円満だった。 里美の夫、健介は大手町にある財閥系の金属メーカーの人事部に勤める平凡なサラリーマンである。人事の仕事は忙閑の差が激しく、里美が帰宅するともう帰っているということもあれば徹夜仕事になることもある。ただ新婚八ヶ月目に入った今月は、新卒社員の採用の仕事が大詰めで、ことさらに忙しい日が続いていた。 その日、里美が帰宅すると誰もいない部屋で電話が鳴っていた。七月も終わりに近づいた暑い日だった。里美は急いで受話器を取った。 「はい、高田です。」 閉め切っていた部屋の中は熱気が充満していた。 「あ、俺だけど、今日もちょっと帰れそうにないから実家の方に泊まるよ。」 いつもと同じ事務的な健介の声に、里美はたまらなくせつない思いがした。仕事を終えるのが遅くなると健介はたいてい都内にある自分の実家に泊まる。健介の実家は目白にあり、会社からタクシーに乗っても三千円ほどであったし、満員の電車での通勤の大変さは里美も身をもってわかっていたからそれを寛容に許してきたのだが、この二週間はそれが度重なっていたからさすがの里美も淋しさを感じ始めているのだ。 昨日も一昨日も、健介は帰宅していない。共働きの両親の一人娘として育ち、家に一人でいることに慣れてはいるけれど、ひとりぼっちの夜はやはり心細いし、淋しい。それが三日も続くなんて、と思った。 「仕事がそんなに大事なの?」 向こうが会社のデスクからかけていることは承知の上だったが、里美はたまらず声を荒げてしまっていた。知り合ってからほとんど喧嘩らしい喧嘩もしたことがなかった里美としては、かなり思い切った口調だった。健介は何か言い訳をしようとしているようだったが、里美はそのまま邪険に電話を切った。 きっと健介はすぐにもう一度電話をかけて来るだろうと思った。聞いても仕方のない弁解は聞きたくなかった。それにいつも健介がするように、優しい声で諭すように話されるのもいやだった。それで最後は結局、里美のわがままということになってしまうのがわかりきっていた。 里美はその電話のベルが鳴る前に留守番電話に切り替わるボタンを押し、すぐに身を翻してハンドバックだけを手に家を飛び出した。 七時を過ぎて、西の空が赤紫色に染まっていた。辺りは暗くなり始めていた。飛び出しては来たものの、行く場所が思い当たらなかった。里美はしかたなく駅の近くにある喫茶店に入った。 雑居ビルとマンションの間に挟まれた小さな平屋建てで、清潔そうな店だった。『ブルージュ』というこの店に、以前に健介と二人で訪れたことがある。まだ引っ越して来たばかりの頃だった。紅茶がおいしかったのが印象的だった。それに気の優しそうな店のマスターと、少し話したことがあった。 何より、この郊外の小さな町には他に喫茶店と呼べるような店がない。あとはだいたいスナックとかパブとか、お酒を飲むような店ばかりなのだ。 「いらっしゃいませ」 口髭を生やしたマスターは三十代の半ばくらいで、背が高く、がっしりとした体格をしている。店は四人掛けのテーブル席が五つほどと、カウンター席という小さな作りになっている。 「今日はお一人ですか?」 マスターは里美を憶えていてくれたようだった。もう閉店が近い時間なのか、店はすいていた。 奥のテーブル席に一人だけ客が座っていた。 「え…ええ。」 里美は無理に笑顔を作って答えた。 「喧嘩でも?」 里美が険しい顔をしていたからだろう。マスターはよく透るバリトンで静かに訊いた。鳶色の眼は人の心の中をなんでも見透してしまうような不思議な雰囲気を持っている。 「え、ええ…まあ。」 「そう…。」 テーブル席の一つに腰掛けた里美の注文を聞かずに、マスターはカウンターの中から飲みかけのワインの瓶とワイングラスを持ってきて里美の前に置いた。 「少しだけ飲むと落ち着きますよ。サービスにしときます。といっても常連さんからの戴き物なんですけどね。」 赤紫色のワインが注がれる。 「どうもすみません…。」 普段は滅多にアルコールを口にしないが、何を飲もうと思って入ったわけでもない。健介へのあてつけの気持ちも働いて里美はグラスに口をつけた。口あたりが柔らかく、乾いた喉にやさしげな、軽い感じのワインだった。 「あ、おいしい…。」 マスターは何も言わずにわずかに微笑み、カウンターの中に戻って洗い物を始めた。里美はぼんやりと窓の外を眺めた。急ぎ足で家路に向かう背広姿の男性が、店の前を通り過ぎていく。 やがて奥の席でスポーツ新聞を読んでいた商店主風の男性客が勘定を払って出て行ったの最後に、店の中には他に客がいなくなった。 マスターが濡れた手をエプロンで拭きながらカウンターを出てきて里美の前の席に座った。 「喧嘩、って、いったいどうしたんです?」 マスターが静かに訊いた。 里美は少しの間ためらったが、このマスターに聞いてもらうのも悪くないかと思った。 八ヶ月前に結婚した夫の健介は、仕事で帰りが遅くなると何かと理由をつけて実家に帰ってしまう。それも七時頃に電話をかけてくる。ひどい時には留守番電話に「今日は帰れないから」というメッセージが入っているようなこともある。もっと遅くにかかって来る電話なら、なんとか早く終わらせて帰ろうとしたけれど電車がなくなったとか、そういう姿勢が感じられるのだが、そんな時間ではないのだ。それはそれで気を使ってくれているつもりなのだろうが、淋しくてたまらなくなることもある。 人事の仕事をしている健介にとっては七月と八月は最も忙しい時期らしく、今月はそんなことがしょっちゅうだった。 「しかも今週は今日で三日連続なんですよ。」 里美の話を、マスターは相づちを打ちながらほとんど黙って聞いていたが、里美が話を終えると、 「そう…。僕だったら、こんなきれいな奥さんを一人ぼっちにするなんて、とてもできないけどねえ。」 と言って、おどけたようにウィンクをしてみせた。 「まあでも、仕事が忙しい時はしょうがないのかもしれないなあ。僕も昔サラリーマンやってた頃は徹夜なんてこともよくあったし…。彼は無理して頑張っちゃうタイプなんでしょう 。」 「そうなんですよね…。」 「僕の場合は無理に頑張るのができなくって辞めちゃったんですけどね。」 里美はようやく笑い、それでなんとなく打ち解けた。マスターは商売柄なのか聞き上手で、身の上話のようなことになった。 健介とは女子大を卒業したばかりの頃に友人の紹介で知り合った。 一つ歳上の彼の持つ穏やかな雰囲気と静かで優しそうな話し方に魅かれて、交際を始めるまで時間はかからなかった。早い時期に両親にも紹介したのだが、特に母親が彼のことを気に入って、交際一年目くらいから結婚という話も出始めた。 「少し早いかもしれないけど」という彼のプロポーズに、里美もまったく異存はなかった。去年の七月に婚約し、彼の仕事が比較的落ち着いている十二月に式を挙げた。 「ああ、じゃあ前に彼と来たのはまだ新婚ほやほやの頃だったんだね。」 「ええ、たしかそうですね。」 「たしかテニスのラケット持って。」 「そうですね、テニスの帰りに寄ったんです。」 「二人とも上手そうだね。」 「ああ、いえ、彼はまあ上手だと思いますけど、私は好きなだけで…。」 「休みの日なんかはやっぱりテニス?」 「そうですね…、彼の方が行こうってよく言うので…。」 「共通の趣味があるっていうのはいいね。」 「ええ…そう思います。」 「旅行なんかは?」 「温泉に一回だけ行きました。でも彼は体を動かす方が好きみたいで、テニスの方が多いですね。」 「ああ、あれでしょう、学生時代からテニス部とかでやってたんだ。」 「ええ、まあサークルなんですけど、けっこう強いところだったみたいで。」 そんな会話をしながら、知らず知らずのうちに里美はかなり立ち入ったことまで話していた。 「通勤はどちらまで?」 「東京駅です。赤羽で乗り換えて。」 「じゃあ、混むでしょう。」 「ええ、すごく。だからなるべく早く出るようにしてます。 」 「いや、夕方もね、混んでるでしょう。特に埼京線にはスゴイ痴漢がいるらしいから気をつけたほうがいいよ。」 「はあ…。」 「うちの常連さんなんだけどね。やっぱりOLやってて、綺麗な顔した子なんだ。で、その子が話してくれたんだけど、三人グループでね、前と横と後ろから触られて、ひどい目に遭ったって…。」 「気をつけます。」 里美は笑顔で答えた。マスターの好意は嬉しかったけれど、それ以上具体的な話になるのがいやだったのだ。 話をはぐらかされたような形になってマスターはちょっと物足りなそうな表情だった。マスターにしてみれば、もっと具体的な話をして注意を促したかったのだろう。まるで話の腰を折ってしまったようで、悪い気もしたけれど、痴漢の話はしたくない。 テーブルの上のグラスには二杯目のワインが注がれていた。 「マスターは結婚されてないんですか?」 話題を変えたかったこともあり、また自分の事ばかりを話していることに気が引けて里美は訊いた。 「ははは、結婚ね。」 マスターは笑った。口髭のせいで第一印象ではさほど感じられなかったが、よく見ると整った顔立ちをしていて、笑った顔にも愛敬がある。里美の母が男性を褒めるときに使う「人品骨柄卑しからず」という表現が似合いそうだった。 「僕は人妻の不倫相手と専門だから。奥さんみたいに淋しい想いをしてる人妻を慰めるのが忙しくて結婚どころじゃないな。」 「えーっ、本当ですか?」 艶っぽい話が苦手な里美は笑ったが、何か、不安のような複雑な動揺が胸の奥に沸き上がるのを感じていた。 例えばこんな淋しい想いをしている夜に、このマスターのような男性に誘惑されたら、なんとなくその気になってしまう人だっているに違いないと思った。
2008/08/21 11:59:53(F3Wk31Mm)
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