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1:姉妹
投稿者:
ま
宮野直子は、高校三年生の時には既に、才色兼備の名声を担っていた。彼
女の歌声は、合唱部で誰よりも美しく、容貌もまたそうであった。その合唱 部は、コンクールでは全国大会の常連であった。卒業生の中には音楽大学に 進んだ者がいて、その中にはすでにプロとして活躍している者もいた。さら に、毎年一人や二人は、将来音楽で飯を食っていこうと志す新入部員がい た。そのくらいの実力を誇っている部で、誰よりも美しいと言われる歌声と 容貌をしているのだから、彼女がその道で成功を収めるであろうことに疑い を挟むものはいなかった。しかし彼女は、人から言われるほど自己を評価し ていなかった。確かに、人より少し歌がうまいらしいとは思った。個人レッ スンを受けている先生から、歌唱力は十分音楽大学に合格するだけの水準を 満たしていると言われているから、それについてはある程度自信を持ってい た。けれども、そこまで囃し立てるほどのものでないと思っていた。それに は、妹の存在があった。 妹の優子は、姉と同じく才色兼備であった。姉を心から慕っており、直子 も自分になついてくる妹を心底愛おしく思っていた。優子は姉の真似をして 声楽を習っていた。姉について同じ高等学校に入り、同じ部活動に入った。 直子は、それらのことは嫌でなかった。むしろ、先輩としても優子を可愛が った。しかし、妹のほうが歌がうまいらしく感じるのは、悔しくて嫌であっ た。もちろん、直子のほうが二年多く生きており、それだけ練習時間も多か ったのだから、単純な比較では、直子のほうが上手であり、それは自他共に 認めるところであった。が、一年生だったときの自分と比較してみると、今 の妹のほうがより上手に歌っているのではないかと思わずにいられなかっ た。例えば、直子が一年生のときに歌えなかった歌曲を、優子が歌ってみせ ることがあった。そういうとき直子は嫉妬を感じた。三年生になった優子 が、今の自分よりもさらにうまく歌うのを想像すると、妬ましく思わずにい られなかった。それから直子は、優子のほうが可愛いと思っていた。それは 歌に比べれば大きな問題でなかったが、女としては羨ましかった。 歌のことにしても容貌のことにしても、直子が考えていることは、隣の家 の庭の芝生が、自分のそれよりもより青く見える、という心境に過ぎなかっ た。向上心があり、負けず嫌いなものだから、自分に近い実力の人を見る と、どうしてもうまく見えてしまい、負けたくない、負けるのは悔しい、と 思うのであった。実際に、直子と優子を比べてみて、直子が劣っていると思 う者はいない。また、優子が劣っていると思う者もいない。どちらも同じく 上手だから、あとは好みの問題になる。姉妹でも、優子が姉の真似をしてい ても、声や、歌うときの仕草には違いが出るのだから、より自分の好みに適 合する方を上手だと感じるだけのことである。容貌にしてもそうである。大 人びた雰囲気のある直子を美しいと思うか、似てはいるが、やや幼げな優子 を美しいと思うかは、好みの問題である。それから、性格も同様である。 性格といえば、直子は、優子が気さくに男子と会話するのも羨ましかっ た。直子はそういうことに関しては内気で、男子と話すことを苦手としてい た。男子のほうも、惚れる者は多かったが、顔が綺麗な上に、歌の才能まで 持っているから、自分とでは不釣合いだと感じてしまって、声をかけるもの は少なかった。その点優子は、自分からどんどん男子に話しかけるから、親 しみやすかった。男子が嫌いなわけではない直子は、そういう妹の姿を、羨 望の眼差しで眺めるのであった。 しかし、そんな直子にも例外の男子がいた。村田康介という、直子や優子 と同じく、声楽を習い、将来声楽家を志す者であった。志を共にするものと して、康介と直子は、一年生のときから意気投合した。康介は、美男子では ないが、歌に関しては真面目で、努力家であった。直子は康介のそういうと ころに魅かれた。いつしかはっきりと恋慕の情を意識するようになった。 「宮野」 と声をかけられるだけで、胸がときめき、嬉しくなった。落ち込んでいる ときでも、それだけで機嫌がよくなった。 「昨日のレッスンで先生に言われたんだけどさ…」 という具合に、会話が始まるのである。直子も、康介とだけは自然に話せ た。話は、発声法や練習法などについてそれぞれの考え方を話し合ったり、 それぞれの師匠の教え方などについて盛り上がった。話題は脱線することも 少なくなかった。好きなテレビ番組や、好きな食べ物や、それぞれの趣味な どについて話し合うこともよくあった。世間話もよくした。共通の話題を逸 れても、相手が康介であれば直子は饒舌であった。自分のことを色々知って ほしいという気持ちがあった。また、康介のことを色々知っていくのも、直 子にはかなり嬉しいことであった。 康介とそこまでお喋りをする女子は他にいなかったから、直子は安心して 康介と話した。しかし、気持ちを打ち明けることはしなかった。会話はでき ても、やはり基本は内気であった。また、成功すれば良いが、失敗して、そ の上気まずくなって今まで通りに話ができなくなったらと考えると、そうな るよりはこのままの関係を続けたほうが良いと思った。それは臆病な自分へ の言い訳に違いなかった。直子自身それを認めていた。しかしやはりどうす ることもできないまま、三年生になった。 三年生になり、優子が入部してくると、少し状況が変わった。直子と康介 が喋っている中に、時々優子がひょっこり入ってくるのであった。可愛い妹 でも、そのときばかりは邪魔者だと感じた。あなたはしょっちゅう他の男子 とお喋りしているのだから、村田君とまでお喋りしないでよという身勝手な ことまで考えた。しかし、直子のほうが二年長く康介と接しているのだか ら、話題の中心は直子と康介の間にいき、優子は置いていかれがちであっ た。そうなると直子は優越感をもって優子を見た。ところが優子は、屈託な い表情で大きな瞳をくりくりさせて、楽しそうに二人の会話に耳を澄ませて いた。その顔を見ると、直子は、邪まなことを考えていた自分が情けなく、 恥ずかしくなって、また妹を愛おしく思う気持ちを思い出して、優子に話を 持っていってやるのであった。すると優子は、二人の顔を見比べながら、や はり楽しそうに喋りだすのであった。 ある夏の日。部活動が終わって、直子と優子が自転車置き場で話してい る。 「お姉ちゃんは直接先生のところに行くね。今日はお父さんもお母さんも遅 くなるみたいだから、お留守番よろしくね」 「うん」 二人は校門で別れた。その日直子は個人レッスンがあった。レッスンは週 三回ある。優子も同じ先生に習っているが、週一回である。直子は三年生で 受験が近いし、家庭の経済状況というのもあって、そのようなのである。 直子は先生の自宅へ向けて自転車を走らせながら、考え事をしていた。そ れは、やはり自分よりも妹のほうが歌がうまい、つまりは素質があるらしく 思われることについてである。それについて、今から会う先生に問うてみれ ば、あるいは答えを得られるかもしれないと考えた。直子が一年生のときか ら教えている先生だから、当時の自分と、今の妹とを比べてみて、どちらが うまいかは判断できるのではないかと考えた。しかしその考えは考えのまま で、実行されることは決してないであろうことは考えた本人がわかってい た。もし、妹のほうがうまいと言われたらショックだし、自分のほうがうま いと言われたとしても、自分を傷つけないために嘘を言っているのだと疑う だろうからである。結局、自分がそう思っているのだから、人に聞いてみた って仕様がない。直子はしょっちゅうこういう考え事をするのであった。そ うしていつも、同じ結論に到り、最後は、私は私、あの子はあの子、と自ら を励ますのであった。 それから、康介のこともよく考える。主に、告白すべきかせざるべきかと いうことを考え、これは結局、現状維持という結論で終わる。しかし最近 は、卒業してしまったら、現状維持というわけにはいかないだろう、という ことも考える。二人が目指すのは東京芸術大学であるが、当然二人とも現役 で合格というわけにはいかないかもしれない。歌唱力は十分でも、試験はそ れだけではないのである。よしんば、二人揃って合格できたとしても、環境 が変われば、どのようになるかは想像もできない。今のところ、康介に恋人 はいないようだが、大学に行けば新たな出会いがたくさんある。自分がもじ もじしていれば、誰かに先を越されてしまうかもしれない。それを思うと、 今のうちに告白するべきだと考える。失敗したとしても、しないよりはまし だと考える。しかしやはり決心する勇気が出ない。いつかは必ずしようと思 うのだが、それがいつかは自分でも見当をつけられない。そんな風に考えて いると、やがて考えるのに疲れて、とりあえずそのことは保留してしまうの が、最近の直子の習慣であった。 そのうちに先生の家に着いた。楽譜などが入った鞄を持ち、チャイムを鳴 らした。ところが、反応が無い。もう一度鳴らそうと手を挙げたところで、 玄関の戸が開いた。 出てきた先生は、明らかに体調が悪そうであった。直子は驚き、心配し た。 「どうしたんですか」 「ごめんね宮野さん。お家に電話したんだけど、誰も出なくって。この通 り、先生、今日ちょっと体調悪いから、レッスンはお休みにさせてくれ る?」 断る理由無く、直子は見舞いの言葉だけ言って、すぐにまた自転車にまた がった。 先生の家から自宅までは近い。五分ほどで自宅に着いた。二階建ての一軒 家である。優子が一人でいるはずである。晩御飯はどうしようかなどと考え ながら、家に入った。 「ただいま」 と言って、あれっと思った。いつもは、二階の自分の部屋の中にいても、 返事が返ってくるのである。だが、そう大事件でもないので、さして気にせ ずに、靴を脱ごうとすると、今度は紛れも無い大事件を発見した。家のもの でない男物のローファーがあるのである。しかも、直子はそれに見覚えがあ った。好きな人の靴だから、汚れ具合もしわの寄り加減もよく記憶してい る。確かに康介のものであった。 何故と思いながら、ある想像をした。それも半ば確信めいた想像であっ た。 一階には誰もいない。直子は恐る恐る二階に上がった。優子の部屋の中か ら声が聞こえる。部屋の前まで来ると、幼く可愛い妹からは聞いたことのな い、妖艶な声が、はっきり聞こえた。明らかに、喘ぎ声である。 直子は全身ががたがた震えた。喉と唇がやけに渇いた。弾けんばかりに動 悸がして、その音で自分がそこにいることを気取られるのではないかと思っ た。 直子はドアノブに手をかけた。見てはいけないと頭のどこかで命令が下さ れたが、体には伝わらなかった。好奇心では絶対にない。怖いもの見たさで もない。直子は、希望を見たかった。あの靴はきっと、康介のものによく似 た、別の人のものだ。 しかし、直子が見たものは絶望であった。後姿でしかも全裸であったが、 直子には一目でそれが康介だと知れた。そうして、その下にいるのが実の妹 の優子だと言うのも確認できてしまった。そうしてそれから、康介の最も汚 いものが、優子の最も汚いところに突き刺さり、めりこんでいるのが、ドア のわずかな隙間からでも、はっきりと見えた。 直子はそっとドアを閉め、忍び足で家を出た。そうして重い足取りでどこ へ行くでもなく歩き出した。歩きながら、自分の中に二人への激しい憎しみ が湧いて来るのを感じた。 「汚らわしい! 汚らわしい! あれはなんだ。さっきのあの醜いものは何 だ。あれは妹じゃない。あんな醜い猿が私の妹であるはずがない。妹は、優 子は、可愛い、無邪気な女の子なんだ。あんなことするはずがないんだ。上 にのっかっていた肉の塊も、あれはなんだ。私は知らない。私の好きな村田 康介は、あんなんじゃないんだ」 今まで自分とは無縁だった世界を、最も身近な、そういうことをするなど 想像もしなかった者によって見せ付けられたショックは、比類なく、容易に 信じることはできなかった。 「だけど、ああ、見なけれあよかったのに。見てしまった。ちくしょう。あ の二人は、いつから」 経験のない直子にも、見たのが一瞬でも、初めてでないらしいことはわか った。なんとなく、つい最近でもないような気がした。 「なんてこと! 可愛がっていた妹に、好きな人を取られるなんて! ちく しょう。あの女、カマトトぶって、とんだあばずれだ。淫乱だ。娼婦だ。あ の男もそうだ。女に興味ない振りして、やることやっていやがる。しかも、 相手は私の妹か! ちゃっかりしてるのねえ。ああ、馬鹿馬鹿しい。くだら ない」 直子の思考はやけくそになった。自分でも信じられないくらい、二人を憎 み、侮蔑する気持ちが、いくらでも湧き出て溢れた。 「だけど。だけど、私も、最後にはああいうことを望んでいたんじゃないだ ろうか。そうに違いない。私だって、康介君のことを考えるときに、裸を想 像したり、エッチするのを想像したりしたじゃないか。私はたまたましなか っただけで、妹が先にやっただけのことだ。私も一皮向けば、やっちゃえ ば、きっと同じなんだ。私と、それからあの二人と、異なるところが、どこ か一点でも、あるだろうか」 直子はそこまで考えると、突然空虚な思いにさらされた。自分の意気地の なかったのが一番悪いんだという気になって、俯いてふらふらと歩き回っ た。 二人は、直子のレッスンの時間が一時間あるのを計算して、行為に及んだ のだろうと思われた。そこで直子は、小一時間、コンビニエンスストアで雑 誌を立ち読みして、それから家に戻った。康介はいなかった。 「ただいま」 そう言うと、今度は返事が返ってきた。優子は居間でテレビを見ていた。 直子の姿を見ると、何事もなかったような顔をして、 「はやくご飯食べよ。お腹空いちゃった」 と可愛げたっぷりに言った。直子は、そりゃああんなことしてりゃあ腹も 減るだろうよ、と思い、あんなことをしても、これだけ無邪気そうに振舞え る妹に魔性を感じると同時に、一時は空虚な思いに隠れていた憎しみが再び 燃え上がって、ぶちのめしてやりたく思った。しかしそんなことをしてもど うなるものでもない。かといって、今は、仲良く食事をする気にもなれな い。 「ちょっと疲れちゃったから、もう寝るね。ご飯は、一人で食べていいよ」 そう言うと、優子は本当に心配そうな顔をした。直子はそんな妹をかえっ て憎らしく思った。 部屋に入り、ベッドに倒れこんだ。先のことを思い出し、嗚咽した。今度 は、好きな男を別の女にとられてしまった、悲しさがあった。あの二人は、 内緒で付き合っていた、私は失恋したんだと自覚し、枕に顔を埋めて泣い た。 「康介君…」 何故か、あのときの場面が、脳裏に焼きついて離れなかった。しかも、か なり鮮明に記憶してしまっていた。康介の性器が、優子に激しく出たり入っ たりして、泡がついていたのも覚えていた。直子は下腹部が熱くなるのを感 じた。そのときは見えなかったが、行為中の妹の顔を思い浮かべた。今まで 自分について回っていた可愛い妹の、セックスに喘ぐ顔。男性に責められて よがる妹。やがて、想像の中の妹の姿は、自分の姿にすりかわっていった。 自分が康介に激しく突かれているのを空想して、下着を濡らした。 直子は初めて自慰をした。妹は男を手に入れたのに、自分は自分の手で自 分のいやらしいところをいじくりまわしている。それを思うと悔しくて悔し くて仕方がなかったが、絶頂に達するまで、直子の手は止まらなかった。 絶頂のとき、直子はとても綺麗な声を挙げた。 翌朝目覚めると、自分でも不思議なくらい、心がすっきりしていた。それ は寂しい諦めに過ぎなかった。しかし、それが自分の選ぶべき最良の選択だ と信じた直子は、それで十分満足を得た。 優子と顔を合わせると、優子はまた心配そうな顔をして、直子を気遣っ た。直子は、今度は素直に、そういう妹をありがたく、愛おしく感じた。 「大丈夫だよ。ありがとう」 と言うと、優子はぱっと笑った。直子は、やはり自分はこの妹を愛してい るんだと思った。 学校に行き、部活に出た。康介もやはりいつも通りの態度であった。しか し直子は、いつものように話をしたい気分にならなかった。それには、もち ろん昨日のこともあるが、恋心が冷めてしまったらしかった。無理をして話 しかける必要もないと思って、練習をこなした。 休憩時間に、優子と康介が話をしているのを見かけた。多分、大分前から 付き合っているのだろうなと思った。優子が、自分と康介の話しに付いてこ られなくても、にこにこしていたのは、余裕があったからだろうなと思っ た。そう思いながら二人を見ていると、また優子に対して敵対心のようなも のが湧いてくる気がした。それは康介への未練から起こるのでなかった。姉 としても女としても、妹に先を越されてしまって悔しいという心から起こる ものであった。 そこで直子は、そんな気持ちをごまかすために、あることを思った。それ は負け惜しみに違いなかった。しかし直子は、心の内で、強く、烈しく、そ う叫ばずにはいられなかった。 「その人は、優ちゃんに譲ってあげるね」
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2006/06/24 20:15:01(07ZXd8rH)
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