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1:捕虜
女は、男のために茶を淹れた。そうして、おもての畑で作業をしている、
体つきのいい、若い男を呼んだ。 「休憩にして頂戴」 男は、女に従い、作業を中断し、勧められるままに茶を啜った。茶は、お おかた紅茶の類であろう。 「いつもありがとうね。あなたがいてくれて本当に助かるわ。いつもはほと んど主人に任せきりにしていたし、女の私には、どうしても大儀なものだか ら」 女は微笑しながら言った。男は、口に含んだ茶を飲み込んでから、 「お役に立てているのなら、幸いであります。けれど、よろしいのですか? ご主人が大事にされている畑なのでしょう?」 と言った。女は、寂しげにその畑を眺めた。 「いいのよ。放っておくわけにはいかないし、私なんかがいじくったら、放 っておくよりひどいことになるもの。それに…」 女は言葉を止めた。それきり、言葉を継ごうとする気配もない彼女の様子 は、男のほうがその先を気にして、自分に続きを促すのを待っているようで もあった。ところが、男は、その先の言葉がおおむね予想できていたので、 格別、女に喋らせようとせず、二人は沈黙してしまった。 やがて、女は、待ちきれないように自分から言葉を続けた。 「帰ってくるかも、わからないもの」 怒ったように言い放つと、空になったカップをさっと回収して、流しへ引 っ込んでしまった。 その言葉は、男が予想していた言葉と、ほぼ一致していた。 ある日、男は、就寝中に、寝室の中に、自分以外の人間の気配を感じて、 目を覚ました。眼球だけを動かして部屋の中を見回すと、ドアの付近に人影 があるのを確認した。けれども、恐怖は感じなかった。すぐに、それが誰と 知れたからだ。 「奥さん?」 と男が呟くと、影は驚いたらしく、一瞬体を震わせて、それきりそこに佇 立してしまった。立ち去るでも近寄るでもなく、ひっそりそこに佇んでい る。男には、なにか躊躇っているかのようにも見えた。 「どうしたんですか?」 と男が言いかけたときに、影は男に歩み寄り、ベッドに横になっている男 の顔に自分の顔を近づけた。その顔は、紛れもなく、男が、奥さん、と呼ん でいる女性の顔だった。 女は、悲壮な表情で男を見つめた。男は、動悸が激しくなるのを抑えるこ とが出来なかった。 「自分でもどうしようもないのよ」 女は、いきなり男に接吻をした。男が驚いたのは言うまでもないが、それ を突き放しはしなかった。しかし、接吻は長く、いよいよ舌が侵入してき て、男の理性はそれを拒否した。 「いけません。奥さん。うかつです」 男は、女の顔、体を自分から引き剥がし、上半身を起こして、そう言っ た。女は、絶望に似た表情を浮かべた。大きな瞳には、今にも溢れそうなほ ど涙が。 「さみしいの。悲しいの。苦しいのよ。突然、理不尽に、大事な人と離れ離 れにさせられて、しかも、それが永遠の別れかもしれない、と思う、とて も、生きてはいられない心細さが、あなたに、わかる?」 女は狂乱の如く、喚きだした。 「あなただって、悪いのよ。あなたは、あまりにも優しくて、いい人なのだ もの。あなただって、悪いのよ。私が、私ばかりが悪いんじゃないわよ」 女は、男の体をベッドに押し付けた。もう、涙は女の頬を濡らしている。 「知って、いるわよ。あなただって、さみしいのでしょう?母国を離れて、 こんな友人もいないところで、暮らしているのだもの。当然よね。わかる わ。我慢しなくたって、いいのよ。あなたは、私を見ながら、ここを大きく したことがあったでしょう?知っているわよ」 そう言いながら、女は男の股間をこすりだした。女は、そこがすでに膨ら んでいるのを確認して、口の端を歪めた。そうして、服を脱ぎだした。 「体が熱いの。自分でも、どうしようもないのよ」 男は、女の猛烈な誘惑に負け、起き上がって、自分から女の唇を奪うと、 そのまま押し倒した。 それから二人は、二匹の動物だった。 「私のこと、軽蔑する?」 「いいえ」 しかし、軽蔑すべきかどうか判断できない、というのが本心だった。 「こうしていると、どうして戦争なんか起こるのかしらって思うわ。言葉や 見た目がちょっと違うだけで、同じ人間で、こういうことだって、できるの に」 「戦争というのはそういうものです。我々兵士だって、今の僕は捕虜です が、敵が憎くて戦っているのじゃありません。上官の命令があって前進し て、やらなければやられてしまうから銃を撃つのです」 「でも、もし、私の主人が、あなたの家族や恋人や友人を殺したら、あなた は、私の主人を恨むでしょう?」 「それは、そうでしょうね」 雰囲気が陰鬱としてしまって、女は自らの発言を不毛なものだったと悔い た。男の返答は至極当然のものであって、女も初めからその答えはわかりき っていたからだ。 女がそれきり話をしださなかったのは、自分のその不毛な質問のせいだけ ではなく、自分の夫に対して罪悪感を感じ始めていたからだ。欲求がある程 度満たされると、思考に余裕ができ、自らの行為を省みて、後悔をするのだ った。女は溜息を漏らした。 その息を聞いた男は、女のそんな心中を察したのか、落ち着いた素振りで 話を始めた。 「もう、これきりにしてください。僕は、奥さんが大変よくしてくださるか ら、捕虜の中でも極めて恵まれているほうですが、もっと辛い思いをしてい る友軍捕虜は大勢いますし、前線では今も多くの仲間が必死で戦っているの ですから、こんなことは、彼らに対して失礼です。第一、あなたは、ご主人 を愛してらっしゃるでしょう?ご主人だって、あなたを守るために戦ってい るのですよ」 という男の言葉を聞いて、女はしょげた。そう言われてしまっては、もう 我儘を言うわけにはいかないな、と思った。 「それに」 男は、そう言って、止めた。躊躇っているようだった。 「それに?」 女は、その続きを言うことを促した。男は無言で起き上がり、女に背を向 けて服を着ながら、 「断る自信がありませんから。奥さんの仰ったとおり、僕だって、祖国を離 れて、寂しいのです」 と言った。 女は、可哀想なことをしたな、と思った。 1940年頃、ドイツでの出来事である。当時、ドイツ国内では若い男が 多く出征したため、労働力が減り、それを補うためにフランスやポーランド の捕虜を、商店や農家で強制的に働かせた。ところが、捕虜と浮気をする主 婦が続出したため、前線にいる多くのドイツ兵の悩みの種となった。
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2006/03/11 15:12:48(q08q3e/z)
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