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優花は、その場に立ち尽くしていた。 薄暗い照明の下で、一人の男が床に膝をついている。 顔を上げることすら許されず、ただ、雛様の足元を見つめたまま、小さく肩を震わせている。 雛様は、そんな男の髪を優しく撫でながら、静かに笑っていた。 「痛いかな?」 男は、すぐに首を横に振る。 嘘だ。 痛いはずだ。 でも、彼は「痛くない」と言わされている。 いや、言わされているというより、もう自分からそう答えている。 優花は、その光景を目で追いながら、胸の奥が変な熱を帯びていくのを感じていた。 (こんなの……だめだよ) 頭のどこかで、ちゃんとした声がする。 人を傷つけるのは、よくないことだ。 そんなの、誰でも知っている。 なのに。 雛様が、軽く足を上げて、男の肩を踏んだ瞬間。 男の喉から、くぐもった声が漏れた。 優花の指先が、小さく震えた。 美しい。 その一語が、頭の中で何度も反響する。 痛がっているのに、嫌がっているのに、でもどこかで「もっと」を待っているような、あの表情。 雛様の足元で、まるで宝物みたいに扱われている男の姿。 (私も……) その思考が、ふと浮かんだ瞬間、優花は自分の心の動きに驚いた。 私は、こんなことしたい子じゃない。 優しくて、誰かを傷つけたくない子でいたいはずなのに。 でも、雛様を見てしまった。 雛様が、人を「求める」姿を見てしまった。 そして、目が醒めてしまった。 優花は、そっと自分の手を見つめる。 小さくて、柔らかい手。 人を叩いたことなんて、一度もない手。 それが、今、熱を持っている。 雛様が、ふとこちらに視線を向けた。 穏やかな、でもどこか深い目。 「優花ちゃんも、してみる?」 その声は、優しくて、残酷だった。 優花は、雛様の言葉を聞いた瞬間、息を止めた。 「……え?」 声が、少し裏返る。 自分でも信じられないぐらい、小さな声だった。 雛様は、優花の反応を楽しむように、そっと微笑む。 足元の男は、まだ顔を上げない。 ただ、肩を小さく上下させながら、息を殺している。 「してみる?」 雛様が、もう一度、優しく言った。 強制じゃない。 でも、拒否できる空気ではなかった。 優花の頭の中で、ちゃんとわかっている声が叫ぶ。 (だめだよ。人を傷つけるのは、よくないことだ) なのに、足が動いてしまう。 一歩、また一歩。 雛様の隣に立つまで、自分が歩いている実感が薄かった。 男の後ろ姿が、目の前にある。 薄暗い部屋の中で、彼の背中は小さく見えた。 汗で少し湿ったシャツが、肩甲骨のラインを浮かび上がらせている。 優花は、自分の右手を見つめた。 小さくて、白い。 これまで誰かを叩いたことなんて、一度もない手。 それが、今、熱を持っている。 「……ごめんね」 小さく呟いて、優花は目を閉じた。 そして、振った。 ぱあん 乾いた音が、部屋に小さく響く。 思ったより、軽い音だった。 でも、男の体がびくりと大きく震えた。 頬が、わずかに赤く染まっていくのが見えた。 優花の胸の奥で、何かが、はっきりと音を立てて崩れた。 (あ……) ごめんね、って言ったのに。 痛がってるのに。 なのに、自分の手が、熱い。 指先が、まだ残っている感触を覚えている。 柔らかい肌が、一瞬だけ抵抗して、すぐに沈み込んだ感触。 雛様が、横から静かに囁く。 「どう? 気持ちよかった?」 優花は、首を横に振ろうとした。 でも、振れなかった。 喉の奥が、からからに渇いている。 心臓が、うるさいぐらい鳴っている。 男が、小さく息を吐いた。 痛みに耐えるような、でもどこかで待っているような、そんな息。 その音を聞いた瞬間、優花の中で、もう一つ、何かが目を醒ました。 「……もう一回、していい?」 自分の口から出た言葉に、優花自身が驚いた。 声が、少し上ずっている。 さっきまでの「ごめんね」とは、全然違う温度。 雛様が、満足そうに目を細めた。 「いいよ。好きなだけ」 優花は、もう一度、手を上げる。 今度は、目を閉じなかった。 男の赤い頬を、ちゃんと見て。 自分がつけた跡を、ちゃんと見て。 そして、また、振った。 ぱあん 今度の音は、さっきより少しだけ、鋭かった。 男の喉から、くぐもった声が漏れる。 優花の太ももが、小さく震えた。 (なんて……美しいんだろう) 痛みに歪む顔。 それでも、逃げない体。 自分の手で、それを作っているという事実。 頭のどこかで、まだ「よくないことだ」という声がしている。 でも、その声は、もう遠かった。 優花は、熱を持った手を、男の髪に滑らせる。 優しく、撫でる。 叩いたばかりの手で。 「……痛かった?」 男は、すぐに首を横に振った。 嘘だ。 痛いはずなのに。 その嘘が、また、優花の中の何かを熱くする。 雛様が、背後から優花の肩に手を置いた。 柔らかくて、冷たい手。 「上手だね、優花ちゃん」 その言葉が、決定的だった。 優花は、もう一度、手を上げる。 今度は、ためらいが、ほとんどない。 優花の手が、三度目に振り下ろされたとき、男の唇から、はっきりと声が漏れた。 「……っ」 短い、押し殺したような音。 でも、それは痛みだけじゃなかった。 どこかで、期待を含んでいるような、変な響き方をしていた。 優花は、その声を聞いた瞬間、自分の太ももが、内側から熱を持つのを感じた。 (やだ……) 頭では、ちゃんとわかっている。 人を傷つけている。 痛がらせている。 それを、自分の手で。 なのに、止められない。 雛様が、優花の耳元で、ごく小さな声で囁く。 「次は、足でしてみる?」 優花の心臓が、跳ねた。 足で。 踏む、ということ。 さっきまで「人を傷つけるのはよくない」と思っていた自分が、今、その言葉に、はっきりと反応している。 優花は、ゆっくりと視線を落とす。 男は、まだ床に膝をついたまま、顔を上げない。 頬はもう赤く腫れ始めている。 自分の手でつけた跡。 その背中に、優花は、ためらいがちに、右足を乗せた。 最初は、本当に軽く。 体重なんて、ほとんどかけていない。 それでも、男の体が、びくりと大きく震えた。 「……んっ」 喉の奥で、声が詰まる。 優花は、その反応を見て、息を飲んだ。 足の裏に、男の肩の硬さと、熱が伝わってくる。 生身の人間を、自分が踏みつけているという感覚。 それが、想像以上に、生々しくて、濃密で。 雛様が、優花の腰に、そっと手を回す。 「もう少し、強く」 その声は、優しくて、残酷だった。 優花は、歯を食いしばるようにして、ゆっくりと体重を預けた。 男の肩が、沈む。 骨の感触が、足の裏に食い込んでくる。 痛いだろうに、男は逃げない。 ただ、小さく肩を震わせて、耐えている。 その姿が、目に焼き付く。 (美しい……) また、その言葉が浮かぶ。 痛みに耐える横顔。 逃げないという選択。 自分の足の下で、動かなくなっている体。 優花の呼吸が、だんだん浅くなっていく。 股の間が、じわりと熱を帯びているのが、自分でもわかる。 恥ずかしい。 こんなことで、感じてしまっている自分が、恥ずかしい。 なのに、足に、さらに力を込めてしまう。 男の喉から、今度は、はっきりと声が漏れた。 「……く、っ」 その声が、優花の中の何かを、決定的に壊した。 彼女は、自分でも驚くほど冷静な声で、言った。 「顔、上げて」 男が、ゆっくりと顔を上げる。 目が、少し潤んでいる。 頬は赤く、唇は小さく震えている。 その顔を、真正面から見ながら、優花は、もう一度、足に力を込めた。 「……痛いかな?」 男は、首を横に振った。 嘘だ。 痛いはずなのに。 その嘘を見て、優花の口元が、初めて、本当の意味で緩んだ。 可憐で、無邪気で、そして、もう戻れない笑顔。 雛様が、満足そうに、優花の髪を撫でる。 「いい顔になったね、優花ちゃん」 その言葉を聞いたとき、優花は、自分がもう、さっきまでの自分じゃないことを、はっきりと理解した。 人を傷つけるのは、よくないことだ。 そんなの、誰でも知っている。 でも。 雛様を求めるオスの姿 そして、自分も、目醒めてしまった。 なんて、美しいんだろう。 雛様が、優花の肩に顎を乗せるようにして、低い声で言った。 「ほら。 優花ちゃんの、はじめてだよ。 感謝しなさい」 その言葉が落ちた瞬間、男の体が、びくりと震えた。 優花の足の下で、肩が小さく上下する。 痛みに耐えていたはずの男が、ゆっくりと顔を上げる。 その表情を見た瞬間、優花の息が止まった。 恍惚としていた。 目が、潤んで、きらきらと光っている。 痛みで赤くなった頬。 少し開いた唇。 なのに、そこに浮かんでいるのは、苦しみじゃなかった。 嬉しそうな、感謝の色。 男は、優花の目をまっすぐ見て、掠れた声で言った。 「……ありがとうございます」 短くて、震えていて。 でも、はっきりと、心からの響き方をしていた。 優花の足の裏に、男の体温が伝わってくる。 自分が踏んでいるのに。 痛がらせているのに。 この人は、今、嬉しそうな顔で、自分に感謝している。 その事実が、優花の中で、何か決定的なものを溶かした。 (やだ……) 頭のどこかで、また小さな声がする。 こんなの、おかしいよ。 人を傷つけて、感謝されるなんて。 おかしいよ。 なのに。 太ももが、熱い。 股の間が、じわりと疼いている。 男の、きらきらした目を見ているだけで、胸の奥がきゅっと締め付けられる。 雛様が、優花の耳元で、楽しそうに囁く。 「ねえ、優花ちゃん。 どう? 自分が踏んでるのに、ありがとうって言われてるの」 優花は、答えられなかった。 喉が、からからに渇いている。 ただ、足に、無意識にもう少しだけ力を込めてしまう。 男の眉が、ぴくりと寄る。 それでも、目は優花を見たまま。 きらきらと、嬉しそうに。 「……もっと、踏んでも、大丈夫です」 その言葉が、優花の理性を、完全に食い破った。 彼女は、自分でも驚くほど小さな声で、呟いた。 「……本当に?」 男は、深く頷く。 痛みに歪みそうな顔のまま、でも、目だけは幸せそうに細めている。 「はい。 優花様の、はじめてですから」 優花様。 その呼び方が、耳に残る。 胸に、熱いものが広がる。 雛様が、後ろから優花の手を取って、男の頭に重ねた。 「撫でてあげなよ。 踏んだあとくらい、優しくしてあげないと」 優花は、言われるままに、指を動かす。 さっきまで叩いて、踏んでいた手で、男の髪を優しく梳く。 汗で少し湿った髪が、指に絡みつく。 男が、目を細めて、くすぐったそうに、でも嬉しそうに息を吐く。 その顔を見下ろしながら、優花は、初めて、自分の口元が本当の意味で緩むのを感じた。 可憐で。 無邪気で。 そして、もう、引き返せない笑顔。 「……いい子だね」 自分の口から出た言葉に、自分で驚いた。 でも、引っ込める気にはなれなかった。 男は、その言葉を聞いた瞬間、まるで褒美をもらったみたいに、目をさらにきらきらとさせて、また小さく頷いた。 「ありがとうございます……優花様」 その声を聞いた瞬間、優花の内側で、何かが、はっきりと音を立てて落ちた。 人を傷つけるのは、よくないことだ。 そんなの、誰でも知っている。 でも。 今の自分は、この「ありがとう」が、欲しかった。
2026/07/23 19:16:54(6Vuo2UWs)
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