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1:後悔12
投稿者:
まさ
◆72/S7cCopg
健介の、千葉での生活は、一言で言えば、中々の苦闘であった。動物相手
の仕事は、忙しかった。慣れないことのために、失敗も多くしたし、疲労も 著しかった。のみならず、人間関係でうまくいかなかった。これは、健介の 人付き合いが悪いのでなくて、全く不運なことに、まるで馬の合わない人物 と職場を共にしてしまったのである。その人物は何かにつけて健介を邪険に した。健介は、後輩という立場上、その理不尽さに腹が立っても、我慢をし なければならなかった。地元を離れての独り暮らしのため、愚痴を聞いてく れる者もいなかった。孤独に苛まされた。やたらと朝香のことが思い出され た。健介は参りかけた。 けれども彼は挫けることをしなかった。辞めるのは簡単だったが、下らな い人間のために己が退散するのは恥だと思ったのである。その人物に何か言 われるときは、なるべく感情を無にするよう心がけた。それでもやはり腹を 立てないわけにはいかなかったが、いくらか気休めにはなった。負けるもの か負けるものかと念じながら仕事に精を出した。数ヶ月経って、概ね仕事に 慣れた頃から、だんだん事態は好転していった。仲良くはならなかったが、 あまり口うるさく言われなくなった。その人物以外の者たちとは、うまくや れた。独り暮らしにも慣れた。たまに感じる孤独は如何ともし難かったが、 炊事、洗濯、掃除等、家事は彼にとって苦にならなかった。いつの間にか一 年過ぎた。その間、彼は一度も帰京しなかった。帰る金がなかったのであ る。独り暮らしに慣れたとは言っても、初めてのことだから、金のやりくり には苦心した。貯金をしなければと思っていても、月末にはほとんど残らな かった。二度、母親に無心を言った。母親は、大事に使いなさいと言って送 金した。手紙も来た。体に気をつけてといったような簡潔な内容であった が、健介は、母の愛情を改めて知り、誇張でなく、泣いた。 朝香のことはほとんど忘れた。たまに、単なる思い出として、思い出す程 度になった。仕事が充実し始め、新しい遊び仲間が出来て、寂しさを感じる 時間は減ったからである。職場に女がおらず、出会いのきっかけもないた め、恋人はできなかったが、自分一人生計を立てるのもままならないのに、 恋人なんぞ作っている場合でないと思われたので、それは別によかった。 またいつの間にか、一年過ぎた。その頃にはもう、金のやりくりも巧みに なり、余裕が出来始めていた。余裕が出来れば、それまで思考の外にあった ものが内に入ってきた。故郷のことを思い出した。母に会いたくなった。朝 香に会いたくなった。直人はどうしているだろうかと思った。健介は、電話 を手に取り、久々に、直人に電話をかけた。 健介は懐かしさを感じながら、府中駅で下車した。この駅の、改札口が待 ち合わせ場所なのである。車窓から見る風景も、駅の構内も、ことごとく寂 寥の念を起こさせた。改札機に切符を通し、辺りを見回す。しばらくきょろ きょろしていると、横から声をかけられた。 「健くん」 聞き覚えのある声に、嬉しくなりながら振り向くと、朝香の美しい笑顔が あった。 「久し振りだね」 「おう。久し振り」 健介はしんから笑って応えた。 二年ぶりに見る朝香は、相変わらず綺麗であった。化粧や服装が、大人ら しく品よく落ち着いている。髪の毛はやはり艶やかでさらさらしている。し かし、健介が気になったことは、以前よりも痩せて、顔色が良いとは言えな いことである。これには正直、ぎょっとした。一瞬、病人かと思ったくらい である。 「健くんは変わらないね」 と朝香が言った。 「そう? これでも、筋肉はけっこうついたんだぜ」 健介はそう言って、力瘤を作る動作をした。長袖のため見えないが、確か に、仕事を始めて以来、健介の筋肉は小気味よく隆起を始めていた。朝香 は、へえと感心して見せた。 「わたしはどう? 変わった?」 と言われて、第一に、先程一目見たときから気になったことを思いつい た。が、それをあからさまには言いづらかった。 「ちょっと痩せたね」 そう言うと、朝香は無邪気に笑って、 「本当? 嬉しいなあ」 と言った。健介としては、心配の気持ちを含めて言ったのに、朝香のほう では逆に喜んで見せたので、心配するほどのことではないのかなと思った。 「川上は?」 それも先から気になっていた。約束では、ここで待っているのは朝香と直 人の二人のはずであった。 「ああ。さっき連絡あって、仕事が少し長引いてるんだって。一時間くらい 遅れてくるって」 それを聞いて、健介は、直人に悪いと思いつつ、喜んだ。わずかでも、朝 香と二人きりになれるのが嬉しかった。 「先にどこかに入っててくれって」 それならと、二人は居酒屋へ行った。 ビールと、つまみを少々注文し、それを飲みながら二人は会話を交わし た。 「本当に久し振りね。仕事はどう?」 「まあまあ楽しんでやってる。小嶋は? 短大はもう出たんだろ?」 「うん。保母さんやってるよ」 「それあ、うん、よかった。でも、小さい子相手じゃ大変だな」 「まあ。でも子供好きだし。可愛いから、けっこう楽しいよ」 「そっか、そっか」 何気ない会話でも、健介は心底楽しかった。話はそれから、主に健介が千 葉に行ってからのことになった。健介は、人間関係ではじめ苦労したこと や、独り暮らしは楽しいながらも孤独が辛いことなどを話した。朝香は興味 深そうに聞いていた。そうしてやがて、話題は直人のことに転じた。 「川上は、今、何の仕事やってるんだ?」 「あれ? 聞いてないの?」 「聞いていない。この間電話したのが、本当に久し振りだったくらいだか ら」 「タイヤのお店で働いてるよ。車が好きだからね。私は、よくわからないん だけど」 「タイヤ。あいつらしいな」 「でも、何だか大変みたい。最近は、客がうざいとか、愚痴ばっかり」 「ああ。車が好きでも、客商売だからな」 「ね。何もそんな仕事でなくたって、趣味で車いじるのはできるんだから、 違う仕事にしたらって言うんだけど、パーツが安く手に入るとか何とか言っ て」 朝香は呆れたような疲れたような笑みをこぼした。健介は、直人の話にな ってから、朝香の表情に翳りが出た気がするのが気になった。しかし、それ だけのことで、あまり飛躍した想像をすることはできなかった。 そのうち、直人が来た。彼も、健介を見るなり、久し振りと声をかけ、懐 かしがった。健介も同様に応じた。そうして、人相が険しくなったと思っ た。仕事のことで愚痴を言っているという話を聞いたばかりだからかも知れ なかったが、目つきが鋭くなって、ストレスを溜めている人の顔に見えた。 「遅れてすまんね。閉店間際に車持ってきた馬鹿がいたもんだから」 まさに、今話していた通りであった。健介はちらりと朝香を見た。明らか に嫌悪の表情であった。 「タイヤ屋で働いてるって? そんなに大変なのか」 「ん? ああ。とにかく、勝手なこと言う客が多くてな」 直人はそう言いながら席に着き、メニューを手にとって眺めだした。健介 が再び朝香を見ると、今度は朝香も健介を見て、 「ね?」 と眼で言った。健介も眼で頷いた。 直人ははじめ、健介の近況を尋ねた。健介がそれに、まあまあだというよ うな返答をすると、それと自分を比較して、俺はこんなに大変だという苦労 話をしだした。朝香の言う通り、愚痴が多いのに健介も辟易した。愚痴とい うのは、少しであれば同情をもって、親身になって聞かれるが、あまり多す ぎると嫌になってくるものである。健介は話題を転じようと、何気ない世間 話を切り出したりしたが、直人はそれに対して二、三応答して、すぐに自分 の話に戻すという具合であった。 「そんなに文句を言うなら、辞めたらいいだろう」 だんだんうんざりしてきて、苦笑しながら言った。朝香も同じ意味のこと を言ったとのことだったが、健介自身も言わずにいられなかった。直人は首 を傾げながら渋い顔をして、ううんと唸った。 「それはそうなんだが、車いじるのには便利なんだよな」 さんざん文句を言うくせに、退職する了見はないらしい。健介は呆れた。 直人の態度が少し気弱な感じになったのを見計らってか、朝香が口を挟ん だ。 「せっかく健くんが来てくれたんだから、もうそんな話ばかりすんのよして よ」 多少とげとげしい口調であった。直人はばつが悪そうに、そうだなと頷い て、それからは仕事の話をしなくなった。 そうしてそれから、三人で飲み食いしながら談笑した。二年間、地元を離 れ、そちらでも友人はできたとはいえ、たまには孤独を感じずにいられない 生活をしていたために、久々に会う親しい友人との会話は、健介にとって、 しんから愉快なものであった。身も心も甦ってくるような心持ちがした。程 好く酔って、時刻も大分遅くなったところで、お開きすることにした。 「今日はありがとう」 別れ際、健介は二人に言った。 「今度はいつ帰って来るんだ?」 「これからは一月に一度くらい帰ってこようと思ってる」 「そうか。また呼んでくれれば、いつでも付き合うよ」 「ありがとう」 直人から朝香に視線を移すと、朝香は真面目な顔で健介を見ていた。 「明日はどうするの?」 と朝香は言った。随分と不意に聞こえた。 「明日は、久し振りの実家だし、家でゆっくりしてるよ」 「そう」 朝香は表情を変えずに、小さく頷いた。健介は、どうしてそんな質問をし たのか少し気になったが、特に深い意味のある質問ではなかったように思わ れたので、聞き返すことはしなかった。 二人と別れてから、健介は、家に向かいながら、その二人のことを思い出 して、思案をした。 二人とも、意外なほど変わっていた。朝香の美しさは変わらないが、表情 にどこか暗い影を落として、やつれたと言っても過言でない有様であった。 何が原因なのか、はっきりしたことはわからなかったけれども、恋人である 直人とのことで悩みがあるように思われた。その直人も、変わっていた。以 前の直人なら、みっともない愚痴を、やたら人に漏らすなどしそうになかっ た。それで健介は、直人にどこか敬意を抱いていたのだが、この日接した直 人には、敬意を抱けないどころか、軽蔑に近い感情さえ起こった。けれども この場合、変わったというより、元からそうだったのが、今までは学生であ ったから見えてこなかっただけかも知れなかった。いずれにしても、高校時 代に、尊敬、信頼していた人物とは、全く違うものになっているように感じ た。 もっとも健介は、直人の気持ちがわからないではなかった。自分とて、千 葉に移ってすぐの頃は、屈託しきってしまって、誰かに愚痴を言いたくて仕 様がなかった。その時に、その誰かが近くにいなかったのは反って幸いであ った。どうにか一人で解決をつけて、誰かに不快を与えずに済んだ。しか し、もし近くに誰か、例えば朝香のような人物がいれば、直人と同じことを したかも知れない。健介はそのように考え、現在の直人の境遇に些か同情を 感じた。とはいえ、どうにもならないわけではない状況を、自らどうにかし ようともせずに、愚痴ばかり言っている彼を、愚図だと思った。 健介は同時に、自分はもしかしたら少しは大人になったのかも知れないと 考えた。自分が成長した分、直人の態度が幼く見えるのかも知れないと思っ た。二年の独身生活は、いつの間にか己を成長させていた。その思いは健介 を嬉しくさせたし、彼に自信を持たせた。そうして彼は、昔の直人ならとも かく、現在の直人には、小嶋朝香という女は勿体ない。そう思い始めた。 翌朝彼は、二年振りに実家のベッドで目を覚ました。彼の母は、いつ彼が 帰ってきてもいいように、部屋はそのままにし、まめに掃除をしてくれてい た。久し振りに母の作った朝食を味わいながら、健介しみじみと母の愛を噛 み締めた。母は色々なことを健介に尋ね、健介は一つ一つそれに答えていっ た。母親らしく、生活についての心配は尽きないようであった。健介が、し っかりやっている、自炊もしていると言うと、安心した表情をした。 格別用事はないので、居間のソファにふんぞり返って、テレビを眺めた。 そんなことでも、我が家であるということが彼の心に安らぎを与え、疲れが 取れていくようであった。 玄関のチャイムが鳴った。母が応対に出た。玄関の戸を開けたらしい音が した直後、あらまあという母の甲高い声が聞こえた。健介は、意外な客が来 たのだなと思ったが、最早千葉県民で、ここにはたまたま帰ってきただけの 自分には関係ないだろうと、動こうとはしなかった。しかし母は、居間に戻 ってきて、にこにこしながら健介を呼んだ。 「朝香ちゃんが来たわよ」 健介は跳ね起きた。休日だからといって、上下ともにジャージというだら しない格好していたのが、急に恥ずかしくなった。
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2006/12/21 21:35:14(24wKgvLB)
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