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1:可愛い弟子 55
投稿者:
タカ
◆mqLBnu30U
第55話
一直線に伸びた鋭い光芒が漆黒の夜空を切り裂いていく。 足回りの強化されたGTRは、深夜の峠道を力強く駆け上がっていた。 左に岩木山、右に八甲田連峰が見える。 八甲田は、明治の終わりに青森歩兵第五連隊が遭難した、いわゆる八甲田雪中行軍遭難事件の舞台となった悲劇の山である。 1902年、対露戦に備え第8師団歩兵第5連隊は冬期のソリによる物資輸送についての検証を行うために総勢210名の隊員を要し、一泊二日の予定で青森から八戸間の雪中行軍を実施した。 わずか一泊の行程ではあったが、途中吹雪に遭遇し、豪雪地帯に不慣れであったことや見積もりが甘かったことなどから、やがて隊は進路を見失い、迷走した挙げ句に退路まで見失って、最終的には199名が凍死するという、世界でも類のない山岳史上最大の遭難事故に発展した。 雪に埋もれていた遺体は完全に凍りつき、慎重に運ばなければ粉々に砕けたというのだから、どれほどの極寒の中で彼らが彷徨っていたのか容易に想像がつく。 死亡の主な原因は凍死であったが、中には崖から転落して亡くなったものや体力不足により力尽きて倒れたもの、そして、意外と多かったのが発狂して川に飛び込み溺死したものだった。 厳しい軍規の中で鍛えられ、強靱な精神力を養っていたはずの彼らが、発狂するまで精神を追い込まれ、凍てつく極寒の川に自ら裸になって飛び込んだというのだから、どれほど過酷な状況に置かれていたのかは想像に難くない。 タカの見つめる先で真っ黒なうねりとなって大きく横たわる山脈は、そんな悲劇の舞台となった山だった。 星ひとつない夜空の下に伸びる黒い巨影は、見る者によっては勇壮で神秘的な光景として映るのかもしれない。 しかし、あそこには寒さの中で彷徨い続けた歩兵第5連隊の怨念が、今も帰路を求めて彷徨っているかもしれないと考えてしまうと、タカには、その山影が自分たちを待ちかまえる不気味な黒い影にしか見えないのだった。 一路青森を目指してから、すでに6時間強。 敵の本拠地に近づきつつあった。 これから、もうひとつの怨念と闘うことになる。 執念で自分の娘を奪っていった男。 そいつから、もう一度娘を奪い返す。 目的地は目前に迫っていた。 もうすぐ、シホに会える・・。 進路を北へ北へと向けていた。 眠気覚ましに開けたわずかなウインドウの隙間から流れ込む外気が一段と冷たくなった。 震えるほど寒さを感じるわけではないが、やたらと腹が冷える。 「閉めようか?」 寒さが気になり、助手席で顔をしかめていたシゲさんに訊ねた。 シゲさんは、首を横に振るだけで声を出さなかった。 胸の痛みのためか、ずっと苦渋の表情を浮かべている。 渋面を作っているのは、おそらく痛みのせいばかりではない。 表情に、苦々しさがにじみ出していた。 あの襲撃事件から二日が経っていた。 あれほど警戒していのに、シホをまんまと奪われた。 シホだけではない。 重丸は左のあばらを二本持っていかれ、シノは買ったばかりの新車を奪われていた。 コトリを襲った大男ふたりは、エンジンの掛けっぱなしになっていたシノの軽乗用車をどさくさに紛れて強奪し、逃走に利用した。 その車両が発見されたと青森県警から連絡が入ったのは昨日のことだ。 「タカさん、私が替わりますから少し休まれますか?」 所有者であるシノが引き取りに行くことになり、足のない彼女をタカが愛車で送ってやることになった。 無論、そんなことは建前であり、3人は奪われたシホを奪還するべく、敵の本拠地へと向かっているところだった。 深夜のせいか東北自動車道の下りにそれほど車はなかった。 順調な長距離クルーズに、今のところ疲れはそれほど感じない。 「大丈夫だから気を使わなくていいよ、シノちゃん。」 苦渋の表情を浮かべる重丸とは対照的に、タカは思いの外、表情に明るさがあった。 確かに、シホを奪われてしまったことに後悔がないわけではない。 だが、要は再奪取すればいいだけの話しである。 シホの居場所はすでにわかっていた。 あとは、そこへ向かって彼女を取り返せば、それですべてが終わる。 単純な性格をしているだけに行動原理が明確になってしまえば、突き進むだけしか知らない男にさほどの憂いはなかった。 まさしく獲物を見つけた鷹のごとく、ぎらつく瞳は前だけを見つめている。 ハンドルを握る手が汗ばんでいたのは、学生の頃から闘いに明け暮れ、鍛え上げてきた肉体が、敵の近づいたのを察知して昂揚しているからだ。 汗は手のひらだけでなく、脇の下や背中の一部からも吹き出している。 決着のときは、刻一刻と近づいていた。 火照った身体から吹き出す汗が止まらない。 しかし、腹だけは・・・異様に冷えてならなかった・・・。 2日前・・・ あれほど警戒していたのに、まんまとしてやられた。 いや、油断していたから、やられてしまったのだ。 もっと早くに帰ってやれば、事態はまた違った方向に進んだのかもしれない。 シホのそばを離れさえしなければ、あいつを奪われることはなかったのかもしれない。 シゲさんに真実を告げられ、ことの重大さを理解していたはずなのに、やはりタカは心のどこかでそれを現実のものとして受け止めていなかった。 その油断が、シホの強奪という最悪の結末を招いてしまった。 どれだけ後悔しても、もはや後の祭りでしかない。 死んでも守ってやると約束したのに、まったくの口先だけで終わってしまった。 だが、タカにも言い分はある。 あのとき、シホを奪い返すことはできたはずだった。 確かに一瞬ではあったが、黒ずくめの男の腕から逃れ、その身が自由となったシホは自分の意志で走り出すことができたはずなのだ。 タカは、シホがコトリを抱えたまま、脱兎のごとく走り出すものと信じて疑わなかった。 だが、そうはならなかった。 タカの脳裏に、悲しそうに笑ったシホの顔がある。 あの瞬間、シホはコトリだけを解き放つように強く車外に押し出すと、自分は唇を噛みしめながらベンツの中に留まった。 彼女を掣肘するものはなにもなかった。 シホは自分の意志で、そこに残ることを選んだのだ。 ドアの閉まる間際、シホはタカを見つめながら悲しそうな顔で笑った。 あんなに寂しそうなシホの顔を、タカは今までに見たことがなかった。 恐れていたことが目の前で起こってしまった。 近親相姦には魔力がある。 その魔力に、シホは抗えなかった。 タカには、どうすることもできなかった。 闇夜に消えていくベンツのテールランプを呆然と佇んで見送るしかできなかった。 冷静だったのはシノだ。 シノはベンツのナンバーを控えていた。 タカさん!と呼ばれて、我に返った。 重丸が倒れていたことを思い出して、すぐに走り寄った。 重丸は意識を失っていた。 タカの呼びかけに、ようやく目を開いた。 ひとりでは立てそうにない重丸を肩に担ぎながら、シホがさらわれてしまったことを告げた。 苦痛に顔を歪ませる重丸に、警察に応援を求めるように進言した。 サイレンの音がすぐそこまで迫っていた。 ベンツのナンバーはシノが控えている。 市のあちこちには、まだ緊急配備網が敷かれているはずだった。 今ならば、まだ間に合う。 だが、重丸はタカの意見に同意しなかった。 重丸は、間もなく現れたパトカーを視界の中に認めると、肩を担ぐタカを押しのけた。 痛みを押し殺しながら平然とした素振りを見せ、やってきた警察官に、酔っぱらいが暴れただけだと説明した。 事実の隠蔽を図ったのだ。 重丸が懸念していたのはシホとコトリの将来だった。 この事件が公のものとなって、あのふたりまでが調べられるようなことにでもなれば、これまで隠してきた過去がたちまち暴露されて、ふたりは元の生活に戻れなくなる。 それどころか、五所川原の知るところとなれば命さえ狙われかねない。 なにより、コトリの出生の秘密まで白日の下に晒されてしまい、コトリ自身が禁忌の行為の果てに生まれた子だと知ってしまう可能性まであった。 コトリに、なんの罪があるわけではなかった。 シホにだって罪があるわけではない。 子供の頃の彼女は、ひたすら父親に従っていただけなのだ。 罪のないふたりを傷つけたくない思いが、重丸に嘘の証言をさせた。 すべては極秘裏のうちに進めていかなければならない。 もし、シホに生命の危険が迫っていたのなら、それこそ緊急な対応を必要としただろう。 しかし、そうではなかった。 和磨は、自分の娘を取り返しに来ただけだ。 奴らの居場所さえわかれば、いつでも奪い返すことは可能だった。 重丸に諭されて、タカも同意せざるを得なかった。 警察の聴取は、重丸がその場に居合わせたこともあり、ごく短時間のうちに終わることができた。 パトカーでやってきた年輩と若い巡査のふたりは、災難に巻き込まれた重丸を心配するだけで、敬愛する恩師の言葉に、なんの疑いも持たなかった。 シノの車が盗まれたことや重丸がケガを負ったことなどは伏せていたので、簡単な状況確認が行われただけで、警察が到着してから1時間も経った頃には全員が解放されていた。 車を奪われ、足をなくしてしまったシノに代わって、陸上自衛官さんが重丸とシノを自宅まで送ってくれることになった。 タカは、翌日重丸と落ち合う時間だけを示し合わせると、海上保安官さんと別れて、背中で泣きじゃくるコトリを背負いながら自分の部屋へと戻った。 ひどい脱力感だけがあった・・・。
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2015/07/20 12:25:05(J7HnzD8A)
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