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夫は優しい。
それが、時々つらかった。 休日には重い荷物を自然に持ってくれる。 私が少し咳をすれば、薬を買ってこようかと聞いてくれる。 記念日を忘れることもなく、派手ではないけれど、花を一輪買って帰ってくるような人だった。 だから、誰かに不満を言うことはできなかった。 「いい旦那さんだね」 友人にそう言われるたび、私はちゃんと笑った。 「うん。ありがたいと思ってる」 それは嘘ではない。 夫を嫌いになったわけではない。 結婚して十一年。大きな喧嘩もなく、生活は穏やかで、家に帰れば灯りがついている。 休日には一緒にスーパーへ行き、夕飯の献立で少しだけ迷い、同じソファで別々のスマートフォンを見る。 平和だった。 平和すぎるくらいに。 「美奈子、これ安いよ」 スーパーの通路で、夫が洗剤の詰め替え用を手にして振り返った。 「ほんとだ。二つ買っておこうか」 「置く場所ある?」 「あるよ」 そんな会話をしながら、私は笑っていた。 夫の隣にいる私は、穏やかな妻だった。 でも、女ではなかった。 そう感じる瞬間が、少しずつ増えていた。 夫が私に触れないわけではない。 肩を軽く叩くこともあるし、寒い夜には毛布をかけてくれる。 けれどその手は、家族に向ける手だった。 心配してくれる手。 労わってくれる手。 大事にしてくれる手。 でも、私を女として見ている手ではなかった。 贅沢な不満だと思う。 夫は悪くない。 悪くないからこそ、私は誰にも言えなかった。 寂しい、と。 まだ求められたい、と。 そんな言葉を口にしたら、自分がひどくわがままな女に見える気がした。 その夜、私は仕事関係の小さな懇親会に出ていた。 以前勤めていた会社の人たちが集まる、気軽な飲み会だった。 懐かしい顔がいくつもあり、昔の話で何度も笑った。 その中に、槙野さんがいた。 昔の職場の先輩。 当時から落ち着いた人だった。 よく話す人ではなかったけれど、必要なところで短く言葉を置く。 若かった私は、その静かな余裕に少しだけ憧れていた。 「美奈子さん」 会の終わり、店の外で声をかけられた。 振り向くと、槙野さんが傘を手に立っていた。 「久しぶりですね」 「槙野さんこそ。全然変わらないですね」 「それは嘘だな」 少し笑って、彼は私を見た。 「美奈子さんは、変わった」 胸が小さく跳ねた。 「そうですか?」 「うん。無理して笑うのが上手くなった」 雨の匂いがした。 店の軒先に、細い雨粒が落ちている。 誰かの笑い声が背後で遠ざかっていく中、私は返事を探せなかった。 「少し歩きますか」 彼が言った。 「駅まで」 「……はい」 断る理由はなかった。 駅までは十分ほど。 傘を差すほどではない雨で、私たちは屋根のある通りを選んで歩いた。 「結婚して、もう長いんですよね」 「十一年です」 「旦那さん、優しそうだった」 「会ったことありましたっけ?」 「写真で見た。前に誰かが見せてた」 「ああ」 私は少し笑った。 「優しいです。本当に」 「うん」 「不満なんて、ないはずなんです」 自分で言って、言葉の終わりが少し揺れたことに気づいた。 槙野さんは歩く速度を変えなかった。 「不満がないことと、満たされていることは違う」 雨の音が、少し大きく聞こえた。 私は立ち止まりそうになった。 「……そんなふうに言われると、困ります」 「困る顔をしてたから」 「してません」 「してる」 槙野さんは横目で私を見た。 「寂しいって言えない顔」 喉の奥が詰まった。 その言葉は、誰にも触れられないように奥へしまっていた箱の蓋を、静かに開けるようだった。 「夫は、悪くないんです」 私は言った。 「分かってる」 「本当に優しい人で」 「うん」 「だから、私がこんなこと思うのは、おかしいんです」 「おかしくない」 その返事が早すぎて、私は彼を見た。 槙野さんの目は、少しも揺れていなかった。 「優しくされたいだけじゃないんだろ」 胸の奥が熱くなる。 「何を……」 「女として見られたい」 私は息を止めた。 「求められたい」 「やめてください」 声が小さくなった。 本気で止めたかったのなら、もっと強く言えたはずだった。 でも私は、彼の言葉が怖かった。 怖いのに、続きを聞きたかった。 「美奈子さん」 名前を呼ばれる。 夫も私を名前で呼ぶ。 けれど、槙野さんの声に乗った私の名前は、家の中で呼ばれるものとは違っていた。 妻ではなく、一人の女を呼ぶ声だった。 「帰るなら、ここで駅に向かえばいい」 槙野さんが言った。 「俺は送る。それで終わりにする」 目の前の交差点を渡れば、駅はすぐだった。 帰ればいい。 家には夫がいる。 たぶんソファでニュースを見ながら、私の帰りを待っている。 帰れば「寒くなかった?」と聞いてくれるだろう。 その優しさを思うと、胸が痛んだ。 それでも私は、足を動かせなかった。 「でも」 槙野さんの声が、雨の中で低く響いた。 「その顔で帰ったら、今夜眠れないと思う」 図星だった。 私は傘を持つ手に力を入れた。 「そんな顔、してますか」 「してる」 「どんな顔ですか」 「帰らなきゃいけないのに、帰りたくない顔」 恥ずかしさで、視線を落とした。 否定したかった。 でも、否定すればするほど、嘘になる気がした。 「少しだけ」 私は言った。 「少しだけ、話したいです」 槙野さんは、すぐには返事をしなかった。 その沈黙が、私の言葉の本当の意味を確かめているようだった。 「少しだけ、で済む?」 私は答えられなかった。 彼はそれ以上聞かなかった。 駅とは反対側の、小さなバーに入った。 古いビルの二階にある店で、窓際の席からは雨に濡れた通りが見えた。 店内の灯りは暗く、グラスの縁だけが静かに光っている。 向かい合って座るには近すぎる席だった。 私はコートを脱ぎ、膝の上で手を重ねた。 槙野さんはその手元を見ていた。 「緊張してる」 「してません」 「嘘」 彼は淡々と言った。 「指に力が入ってる」 言われて、私は慌てて手を緩めた。 そんな小さなことまで見られている。 それが恥ずかしいのに、どこかで嬉しかった。 誰かに、こんなふうに見られたかった。 家の中で、私はいつもちゃんとしている。 買い物をして、洗濯をして、夫の体調を気遣って、仕事の予定を確認して、疲れていても笑う。 妻としての私は、たぶん悪くない。 でも、その奥にいる私を、誰も見なかった。 いや、私自身も見ないようにしていた。 「旦那さんに不満はない」 槙野さんが言った。 「はい」 「でも、満たされていない」 「……そんな言い方」 「違う?」 グラスの中の氷が、小さく鳴った。 私は唇を結んだ。 違う、と言えば済む。 けれど、槙野さんの目を見ていると、嘘をつけなかった。 「夫は、私を大事にしてくれます」 「うん」 「でも」 そこで言葉が止まった。 槙野さんは待っていた。 急かさず、逃がさず、私が自分で言うまで。 「女として見られている感じは、もうずっとありません」 言ってしまった瞬間、胸の奥が痛んだ。 それは夫への裏切りのようで、同時に、自分への告白のようでもあった。 「寂しかったんだな」 槙野さんの声は、責めていなかった。 それが、だめだった。 責められたら反発できる。 軽く笑われたら怒れる。 でも、そんなふうに受け止められると、ずっと我慢していたものがほどけてしまう。 「そんなこと、言わないでください」 「どうして」 「泣きそうになる」 「泣いてもいい」 「だめです」 「誰の前なら、だめじゃない?」 私は返事ができなかった。 槙野さんは、テーブル越しに私の手に触れた。 強く握らない。 逃げようと思えば、すぐに離せる触れ方だった。 だからこそ、離せなかった。 「帰るなら今だよ」 彼が言った。 「ここから先は、何度も聞かない」 その言葉に、心臓が大きく鳴った。 一度だけ差し出された逃げ道。 そこを選ばなければ、この先はもう言い訳ができない。 私は夫の顔を思い出した。 優しい人。 何も悪くない人。 私を傷つけたわけでもない人。 それなのに私は今、その人では満たされない場所があることを、別の男の前で認めようとしている。 「帰りますか」 槙野さんが聞いた。 私は首を横に振った。 「声で言って」 喉が震えた。 「帰りません」 彼の指が、私の手を包んだ。 「どうして」 意地悪な問いだった。 でも、私はもう逃げられないと分かっていた。 「……見られたいから」 「誰に」 「槙野さんに」 「何を」 胸の奥が熱くなる。 言えない。 でも、言わなければ、きっとこの人は進まない。 私の口から、私自身に認めさせようとしている。 「女として」 ようやく言うと、槙野さんの目が少しだけ深くなった。 「やっと言った」 その一言で、私は目を伏せた。 恥ずかしかった。 でも、同時に救われた気がした。 ずっと言えなかった言葉を、ようやく外に出せたから。 店を出ると、雨は少し強くなっていた。 槙野さんは傘を差し、私をその中へ入れた。 肩が触れる。 ただそれだけで、体が固くなる。 彼は何も言わなかった。 けれど、私の小さな反応を見逃していないことだけは分かった。 「美奈子さん」 歩きながら、彼が言った。 「今ならまだ、一人で帰れる」 「……帰れます」 「帰りたい?」 私は答えられなかった。 その沈黙が答えだった。 次に入ったのは、駅から少し離れた静かなホテルだった。 ロビーの灯りは柔らかく、雨に濡れたコートの肩が少し冷えていた。 槙野さんは、私を急かさなかった。 でも、迷わせもしなかった。 エレベーターの扉が閉まる。 狭い空間で、彼の気配が近くなる。 「怖い?」 「怖いです」 「俺が?」 「違います」 「じゃあ、何が」 私は唇を噛んだ。 「私が、こんなことを望んでいたこと」 言葉にすると、胸の奥が熱く痛んだ。 槙野さんは笑わなかった。 からかうこともなかった。 ただ低い声で言った。 「ずっと我慢してたんだな」 その瞬間、目の奥が滲んだ。 部屋に入ると、薄い灯りだけがついていた。 窓の外で、雨に濡れた街の光がぼんやり滲んでいる。 私はバッグを握ったまま立ち尽くしていた。 槙野さんは、私の前に立った。 近い。 けれど、まだ触れない。 その触れない時間が、ひどく苦しかった。 「今日、何度も鏡を見ただろ」 「……見てません」 「嘘」 彼の視線が、私の口元に落ちる。 「その口紅、誰に見せるために選んだ?」 顔が熱くなった。 「そんなつもりじゃ」 「じゃあ、俺の手を離して」 いつの間にか、彼の手が私の手に触れていた。 強く握られてはいない。 離そうと思えば、簡単に離せた。 でも私は、離さなかった。 槙野さんの目が、静かに私を捕らえた。 「それが答えだろ」 言い返せなかった。 私はバッグを床に置いた。 小さな音が、部屋に響いた。 その音は、私が自分で一線を越えた合図のようだった。 「美奈子さん」 名前を呼ばれる。 夫に呼ばれる時とは違う。 家の中の役割ではなく、私の奥にあるものを呼ばれる声だった。 「誰に求められたい?」 私は目を閉じた。 言えるはずがなかった。 でも、言わないままではいられなかった。 「槙野さんに」 「ちゃんと言って」 「槙野さんに、求められたいです」 言葉にした途端、何かがほどけた。 彼の手が頬に触れる。 急がない。 でも、もう迷っていない触れ方だった。 頬から耳の下へ、首筋へ。 服越しに伝わる指の圧。 息が近くなる。 私は彼のシャツを掴んでいた。 押し返すためではない。 離れないために。 「美奈子さんは、ずっと女だったよ」 槙野さんの声が耳元に落ちた。 「ただ、誰にもそう扱われてこなかっただけだ」 その言葉で、私は完全に崩れた。 崩されたのではない。 ずっと固く閉じていた場所を、自分で開いてしまったのだと思った。 服が肩から滑り落ちる。 ブラのホックを外される指が熱い。 「夫に、そんな顔見せたことある?」 「ない……」 「違うって言うなら、俺の手を離して」 離せない。 指が胸の先端を優しく、でも容赦なく刺激するたび、背筋が震える。 膝に力が入らない。 「見られたくないのに……見てほしい」 頭の中で矛盾が渦巻く。 夫への罪悪感。 でも、こんなに体が熱いのは、初めてだった。 「俺に見せて。妻の顔じゃなくて、美奈子の顔」 「槙野さん……もっと……」 自分から体を押しつけてしまった。 彼が私を抱き上げ、ベッドへ。 ゆっくりと、でも逃がさない手つきで。 熱いものが、私の中に入ってくる。 「あっ……!」 ゆっくり、でも深く。 「ずっと我慢してたんだな」 槙野さんの声が優しいのに、容赦ない。 腰がぶつかる音。 私の喘ぎ声。 「帰りたいのに……帰れない」 「断れるのに……断らない」 槙野さんが私の頰を撫でる。 「美奈子が欲しがってる顔、全部見えてる」 体が震える。 一番奥を突かれるたび、頭が真っ白になる。 「槙野さん……好き……」 言ってしまった。 夫には言えない言葉。 頂点が近づく。 「槙野さん……いきそう……」 「声で言って。誰にいきたい?」 「槙野さんに……槙野さんにいきたい……!」 体が弓なりに反る。 熱い波が一気に押し寄せて、意識が飛んだ。 ……どれくらい時間が経っただろう。 気づけば私は、窓際の椅子に座っていた。 槙野さんが差し出した水のグラスを、両手で受け取る。 指先が少し震えていた。 「大丈夫?」 「……はい」 声が掠れていて、また恥ずかしくなった。 槙野さんは何も言わず、私の髪をそっと直した。 その仕草が、一番胸に刺さった。 終わった後に雑にされなかったこと。 乱れた私を、みっともないものではなく、大事なもののように扱われたこと。 それが、想像していた以上に胸を締めつけた。 「帰れますか」 彼が聞いた。 「帰れます」 「帰りたい?」 私はグラスの水面を見つめた。 帰らなければならない。 でも、帰りたいかどうかは別だった。 「帰らなきゃ、いけないです」 「うん」 「夫が、待ってると思うから」 「うん」 「でも」 言葉が止まる。 槙野さんは、待っていた。 「帰ったら、また幸せな妻の顔をするんだと思います」 「できる?」 「できます」 私は少し笑った。 「ずっと、してきたので」 槙野さんの目が、少しだけ痛そうに揺れた。 その顔を見て、胸がまた苦しくなった。 「でも今夜、自分が満たされていなかったことは、もう知らないふりできません」 言ってしまうと、胸の奥が少し軽くなった。 部屋を出る前、彼は私のコートを肩にかけた。 「寒いから」 何気ない一言だった。 けれど、それがひどく優しくて、帰る足を鈍らせる。 駅の近くで別れる時、槙野さんは私を追わなかった。 「美奈子さん」 「はい」 「今日のことを、後悔するならしていい」 私は彼を見た。 「でも、自分が寂しかったことまで、なかったことにしなくていい」 その言葉を抱えたまま、私は電車に乗った。 窓に映る自分は、いつもの私に戻りかけていた。 髪を整え、口紅を直し、コートの前を合わせる。 それでも、完全には戻らなかった。 目の奥に、槙野さんに見られた顔が残っていた。 家に着くと、夫はソファで眠っていた。 テーブルの上にはメモが置かれている。 『おかえり。温かいお茶、ポットに入ってます。無理しないでね』 胸が痛んだ。 夫は優しい。 本当に、何も悪くない。 私はメモをしばらく見つめ、それから静かに洗面所へ向かった。 鏡の前に立つ。 そこには、幸せな妻の顔をした私がいた。 でも、その奥にもう一人いる。 寂しいと言えなかった私。 求められたいと認められなかった私。 今夜、槙野さんに見抜かれた私。 夫は何も悪くない。 それなのに私は、洗面台の鏡の前で、まだ彼に見られた顔をしていた。 幸せな妻のふりは、きっと明日もできる。 でも、自分が満たされていなかったことだけは、もう知らないふりができなかった。 ……そして、私はもう一度、この顔を見られたいと、静かに思っていた。
2026/05/11 00:29:58(7VfwWxxZ)
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