【見えざる手と道徳感情論】

僕らは池袋北口にある喫茶店「伯爵 」で17時に待ち合わせをした。

1976年に改装された古いビルにある店で、カウンター席の奥が妙に暗い。天井の換気扇は回るたびに軋んだ音を立て、古いジャズのレコードが流れている。

僕はその店のコーヒーが気に入っていた。苦味の効いた深煎りで、飲むたびに頭がすっきりとする。

彼女が到着する間、アダム・スミスの『道徳感情論』を読んでいた。


「また難しい本読んでるのね」

向かいの席に座った彼女は椅子に座るなり、そう言った。

僕は彼女の下の本名の三文字を、ひらがなだけ教えてもらったけど、彼女は僕の名前を知らない。知っているのはハンドルネームだけだ。

「アダム・スミスの『道徳感情論』って、経済学のパパと言われる経済学者が、３００年くらい前に書いた本でしょ？」

「そう。でも、一般的に知られているのは『国富論』のほうだね。市場を『見えざる手』が導く、っていう有名な話がある。でも彼はその前に、どうして人間は道徳を持つのかってことを論じているんだ」

彼女は砂糖を一つ入れ、スプーンで静かにかき混ぜた。

「それってどういう話？」

「彼は、人間は共感（sympathy）によって道徳を持つと考えたんだ。たとえば、誰かが悲しんでいるのを見て、僕たちは同じように胸が痛む。これは理屈じゃなくて、本能に近い感覚なんだ。

だから、社会は共感を基盤にして成り立っている。『国富論』の市場原理も、根本的にはこの共感が前提になっているんだ」

彼女はカップを口に運び、小さく頷いた。

「でも、みんなが共感するなら、どうして不公平なことが起きるの？」

「それはね、人間は完璧じゃないからだよ」

僕はカップを置き、指でページの端をめくった。

「スミスは、人は自分に関することを他人より強く感じると言っている。
たとえば、遠くの国で地震が起きても、僕たちはニュースを見て『大変だな』と思うくらいで、すぐに忘れてしまう。

でも、自分の爪が剥がれたら、そのことしか考えられなくなる。つまり、人は自分の痛みには敏感だけど、他人の痛みには鈍感なんだ」

「身勝手ってこと？」

「いや、そう単純じゃない。スミスはね、人間は『公平な観察者』というものを心の中に持っていると言っているんだ。

それは、自分の行動を外から冷静に見つめるもう一人の自分みたいなもの。

たとえば、僕たちは誰かを傷つけたとき、相手の気持ちを考えて後悔することがある。

これは、心の中の公平な観察者が働いている証拠だ。だから、人間は本能的に自己中心的だけど、それを制御する仕組みも持っているんだ」

彼女はスプーンを静かに置いた。

「それが道徳？」

「そう。道徳は、誰かに強制されるものじゃなくて、自分の内側から生まれるものだとスミスは考えたんだ。

法律や規則がなくても、人は公平であろうとする。もちろん、全員がそうじゃないけどね」

「ふうん……」

彼女は窓の外を見つめた。

「じゃあ、パパ活ってどうなの？」

僕は思わず苦笑した。「どうって？」

「たとえば、お金をもらって食事に行くのって、不公平なのかな？ それとも、ちゃんとした交換？」

「スミスの考えを借りるなら、それは交換というより、人間の『共感』の問題だと思う。

たとえば、君は食事をすることで相手を楽しませるし、相手は君の時間と一緒にいることに価値を感じる。そこに不公平があるかどうかは、お互いの心の持ち方次第だね」

「でも、心の中でバカにしてたら？」

「それは、公平な観察者が働いてない状態だね。スミスの理屈なら、そういう関係は長く続かないはずだ。なぜなら、どちらかが不満を感じ始めるから」

彼女は少し考え込んだ。

「……じゃあ、私は公平な観察者をちゃんと持ってるのかな？」

「それは君が決めることだよ」

彼女は何も言わなかった。

窓の外ではネオンの光が滲んでいた。僕はコーヒーを一口飲み、静かに本を閉じた。

スミスの言う「公平な観察者」は、果たして僕たちの間に存在するのだろうか？

それは僕にも分からなかった。ただ一つ確かなのは、僕は彼女の名前を知っていて、彼女は僕の名前を知らないということだった。

それが何を意味するのか、僕はまだ答えを持っていなかった。

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