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1:夜鷹の床
濡れ縁に雀。障子の穴から乾いた風。骨組みとなった古傘に糊を塗り、柿渋を塗りたくった朱染めの和紙をピシャリ、と貼り付ける。長屋の手狭な三坪六畳間は、足の踏み場もないほどまでに傘で埋め尽くされていた。その中で大喜多与兵衛は黙々と傘貼りに没頭している。
男が一人、断わりも無く木戸から入って来た。与兵衛は意にも介さず。 「相変わらず精が出るのぉ」 男は土間で埃を払ってかまちに腰を降ろし、その瓜実顔をつるりと撫でる。 「お前も暇な男だな。いいのか? こんな所ほっつき歩いてて」 「いいのさ。廻り方同心なんざ暇な役目よ」 男の名は久間紀之介。与兵衛とは旧知の仲である。雀が何かに驚き音も発てず飛び立つ。柔らかな日射しだけが濡れ縁に残る。 「それより聞いたかい?」 「何をだ」 「辻斬りだよ。今朝、美濃屋んとこの角に仏さんが転がっててなぁ。巷じゃこの話でもちきりだぜ」 近ごろ浪人風情が他国から多く流れ込んで来た。そのせいもあってか治安は乱れ、町人たちも枕を高くしては寝られない毎日。 「俺は昼まで寝てたから知らん」 「呑気なもんだな。もうお天道様も傾いちまったぜ」 「だいたい辻斬りなんざ夜出歩かなければいいんだ。俺のような貧乏侍には色町で遊ぶ金子も無いしな」 与兵衛は手を休め、無精髭をぼりぼりと掻きながら久間のほうを向く。 「何が色町か。夜ごと夜鷹を連れ込んでるって聞いてるぜ?」 「人聞きの悪い。あれは雨宿りしたり夜露を凌いでるだけだぞ」 「どっちにしろ、いい噂は立ちゃしないよ。卑賎の輩と武士であるお前様が、ひとつ屋根の下で暮らしてんだ。ましてや若い男女と来らぁ、噂も立つってもんよ」 「噂など知った事か」 「とにかくだ。あんなもん連れ込んでないで、いい加減嫁でも貰ったらどうだい?」 「なぜ所帯の話になる。だいたい十石二人扶持でどうやって嫁を食わす」 「だからよ、お前様もいつまでも傘なんざ貼ってねぇで、奉行所に仕官しろぃ。俺が口利きしてやんから」 「俺は此れが好きなんだ」 ピシャリ。 与兵衛は再び手を動かし始めた。口の減らない久間は、放っておけばいつまでも喋り続ける。 「ま、茶も出ねぇ事だし、俺はこの辺で……」 「お前、何しに来たんだよ」 「お?」 久間がダルそうに腰をあげ長屋を出ると、晴れていたのが嘘のようなどんよりとした空模様。 「こりゃ、ひと雨来そうだな」 「そこの傘持ってきな」 「おう、そいつぁ有難てぇや。お前様の傘は滅多に破れねぇって巷でも評判だからな」 先ほどまでとはうって変わって湿った風が、蛙の声を運んで来る。与兵衛も思わず障子を開け、身を乗り出し天を仰ぎ見た。 ポツリ。 と、鼻先を濡らす一滴の雨粒。しかしながら一向に降るのか降らないのか、はっきりとしない曇り空。暫くして、猫の額ほどの庭に植えられた紫陽花の葉を、雨が叩く音。蛙の声が呼び寄せたか、夕暮れ近くになるにつれ強くなる雨脚。 雨脚は強くなるばかり。あまりの飛沫で、運河沿いの通りにはうっすらと靄のような膜が広がる。 「さっきまで晴れてたのに、なんだよ」 独りごちも瞬く間に掻き消された。こんな時に与兵衛さんが通り掛かれば。などと都合の良い事を考えている、お理津。 運河に掛かる橋の袂に、ぼんやりと傘をさす人影が浮かび上がった。お理津は眉間に皺を寄せながら滝のような雨脚を透かし見る。 「久間の旦那じゃぁないか」 「む? その声はお理津か?」 薄暗くなり始めた軒下からいきなり声を掛けられ、ぎょっとした顔の久間。辺りをキョロキョロと伺う。 「あはは、誰も居やしないよう」 「こんな明るい内から声掛けんじゃねぇや!」 とは言え夕立ち。町屋は影を濃くし始めている。 「あら。廻り方同心が夜鷹に声掛けられちゃ、バツが悪いってかい?」 「おうさ、誰かに見られでもしたらオメエ」 「ご挨拶だねえ。そんな言い草されたんじゃ、もう旦那の相手なんかしてやるもんか」 「それは、こまる」 久間は依然、辺りを気にし続けている。 「ねぇ旦那ぁ。与兵衛さんの家まで、入れてっておくれな」 お理津は見上げながら、傘を叩く雨音に負けぬほどの声で言った。 「それも、こまる。いいか、くれぐれも与兵衛には何も話すんじゃねえぞ」 「いいじゃないか。ただの買った売ったの関係なんだからさぁ」 「気まずいってんだよ」 久間はもはや馴染みと呼べるほど、お理津と通じていた。彼女が宿り木のようにしている与兵衛とは旧知の仲。だけに、なんだか申し訳ないような。それでも……。 「今夜、酒の席があってな。酌なんぞ頼みてぇんだが。戌の刻、弁天橋の袂で待っている」 「はいはい」 言い残し、久間は背を向けると左手を挙げ、そのまま雨の中へと消えて行った。 「ひやぁ、すっかり降られちまったよお」 木戸から断わりもなく入って来たお理津は濡れ髪で、抱えていた莚を土間に放り投げる。狭い部屋を埋め尽くす傘の中で、丸い背中が揺れた。与兵衛である。 「お理津か。そろそろ来るんじゃないかと思ってたよ」 「あたしを待ちわびてたんかい?」 「馬鹿言え。ほら、そっちの傘はもう乾いているから畳んでいいぞ」 お理津はその辺の傘を畳み、自分の座る場所を作った。結ってもいない髪は重く垂れ、一重の大きな目がその割れ目から覗いている。筋の通った鼻先に雫。「借りるよ」とだけ言って、かまどの上にあった手拭いで髪を拭く。 「まったくさ、河原でお侍の相手してたら、いきなりこの大雨さ。途中でやめて金子も取らずに慌てて雨宿りだよ」 「夜鷹が昼間っから商売かよ」 「しょうがないだろ? 今どきたったの二十四文なんだ。明るかろうが暗かろうが、やれる時にやんないと飢え死にしちまうよお。それともあんたが食わしてくれるってのかい?」 忙しなく髪の毛を拭うお理津は、久間に負けないくらい減らず口を叩く。 「俺の稼ぎもお前とたいして変わらん」 「嫌だねぇ貧乏話は。あたしだって芸事のひとつでも覚えてりゃ、遊廓でもっと稼いでやるんだけどねえ」 「お前の不器用は生まれつきだからな」 与兵衛を睨み付けるも一瞬。しんなりと膝を崩し甘い声で囁く。 「でもね、男をよろこばせる事にかけちゃ、誰にも負けやしないよ」 「こら! そこの傘はまだ乾いておらん!」 「んっもぉぉぉ、狭い狭い狭いっ! こんな傘だらけの部屋だから……」 朱色の花が咲き乱れる六畳間、小さな拳で膝をだむだむと叩く。そんな姿を見て、与兵衛は微笑むのであった。薄暗い中で糊を仕舞い、乾いている傘を畳んでまとめあげる。お理津はかまどに火をくべて雑穀を炊き、梅干しと漬物で質素な食卓を作る。 「いつもすまぬな」 「やめとくれよ。別に女房の真似事なんかしようってんじゃないけど、これくらいはしないとさ」 まるで通い猫だな、と与兵衛は思う。気が向いた時勝手に上がり込み、気付けばもういない。いよいよ何も見えなくなってから行灯は灯された。菜種油も安くはない。 「もう夕立の季節だな」 「うん、だいぶ暑くなって来たよ」 質素な晩飯であっても顔を突き合わせて食すれば美味く感じるというもので、その点彼は有り難くも感じていた。食べ終わる頃になって夏虫の落ち着く音色。行灯の明かりは土間にまで届かず、食卓を片付けるお理津の手元は暗い。 「聞いたか? お理津。昨晩辻斬りが出たそうだ」 「物騒だねえ」 「他人事のように言うでない」 片付けが済んでから酒器を出し、二人は酒を酌み交わす。 「あたしの事、心配かい?」 「……」 答えず、黙って杯を突き出す。 「刀で斬られるか飢え死にするかの違いじゃないか」 「もう酔ったのか?」 「このくらいじゃ酔いやしないよ。さてと、雨も止んだみたいだね」 「行くのか?」 「行ってほしくないのかい?」 「馬鹿言え。忙しない奴だと呆れていたところだ」 「莚置かしといてもらうよ。朝方、またお邪魔するけど」 「勝手にしろ」 雲の切れ間から少し欠けた月が顔を覗かせている。はぐれた風に柳が揺れれば、湿った青臭さが鼻孔をくすぐる。道はぬかるみで、月を映した水溜まりを避けながら歩く。やがて、昼間雨宿りをしていた軒下に再びお理津は立った。 通りは風が過ぎるばかりで人影は無い。お理津は遠くに揺れる提灯を見たが、橋を渡って来る手前で右に折れてしまった。ため息は行く宛てもなく闇に溶ける。 「ちょっと早かったかねぇ」 独り言も虚しく朧月。その時、先程提灯の消えて行った運河沿いの道に人影が現れた。闇を透かして見れば、その侍ていの男は久間である。軒下から出て橋を渡るお理津に気付き足を止めた。 「いい月夜だねえ、旦那」 「そうだな」 ひと言だけ答え、久間は黙って歩き始める。お理津はその後を、ただ静かについて行った。
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2021/02/18 19:54:43(q2vJdmCe)
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