裁判で被告や証人に真実を述べるように宣誓を強制するのはある種の暴力であるというのが現在の思想界での常識です。この理由は純粋真実を述べることは権利上は可能でも事実上は不可能だからです。というのもそもそも幾ばくかの虚構なくしては如何なる真実も構成できないからです。(詳しい論証は差し控えさせていただく)
このことを踏まえたうえであなたの主張に目を向けて見ますと芸術性の高いフィクションはドキュメントを超えるというようなことをいわれているが、それはどういう意味でしょうか?ドキュメント=真実の描写という図式が最初になければこういう発言はでてこないと思うのですが?現在のドキュメント映画の監督でも混じりけのない純然たる真実を撮ろうとする人はいない。(少なくともまともな監督であれば)なぜなら純粋な真実を撮ろうとすること自体冒頭に述べた暴力を犯していることになるからです。真実に必然的に取り付く虚構たちの囁きに耳を澄ますこと。これがドキュメント映画の現代の課題でしょう。つまり小説だろうがルポだろうがドキュメントだろうがなんであれ純然たる真実を描写しようなどと志向などしていない、そもそものはじめから虚構なくしていかなる真実も構成できないのだから。よく虚構作家などが「虚構は現実を越える」などともっともらしく言っているが(とはいえ最近は言っていない)そんなこと当然のことで実は何も言っていることにはならない。そもそも虚構なくしては世界も歴史も構成できないのだから。(正確にはそういう発言は間違っているのだが面倒なので発言は控える)要するにあなたはの発言は何も言っていることにならないのではないでしょうか?(事実いかなるスレも100%真実だと思っている人はいないでしょう)
それと芸術性云々という話しですがここのスレと芸術は全く無関係だと思うのですがどうでしょう?まさかこのスレが芸術性が高いと思っているわけではないですよね!
長々と申し訳ない。気分を害されたなら謝ります。申し訳ございません。
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