「え?取れたのですか?」
「9時の便で乗り継ぎになるからな。さ,支度をしよう。午前中のうちに出て今夜は千歳に泊まろう。」
「え?」
「私も一緒に行ってみる事にしたよ。道後温泉には一度行ってみたいと思ってたからね。」
夫人も嬉しそうに横で笑っていました。
氏の行動力に驚きながら支度をしたものでした。
雪の溶けた峠の道を。
一面にラベンダーの咲き誇る草原を。
近くの農家で貸してもらった馬に乗り夫人と三人で走った事を。
網走の海を見に行った事を。
誕生日に札幌へ行きお祝いをしてくれた事を。
少しずつ変わる季節を感じながら駅までの送り迎えする車で話した事を。
ゆっくりと時間の流れる日々の中で牧方氏は本当の子供に接する様に愛情を与えてくれました。
それは牧方氏のところに居着いて二度目の冬が終わる頃,突然の事でした。
「圭一。」
「はい。」
「頼みがある。」
「何ですか。」
「俺はもう永くなさそうだ。こんな事を頼めるのは圭一以外にいないと思っている。」
突然の話しに言葉も出ないでいました。
「家内を任されてくれないか。」
「そんな‥永くないって‥どう言う事ですか?」
週に一度ないし二度の札幌へ通っていたのは氏の言葉通り,顧問としての勤めだと信じて疑わなかったのですが。
定期的に札幌の病院へ一人通っていたのでした。
入院をする様に医師からも言われていたのを気力で断っていた様でした。
「最期はあの家で死にたいと思っていたが,考えてみたら年寄りのわがままだと気付いたよ。看護婦や医者を通わせるにはあまりにも酷過ぎるしな。」
「夫人には?」
「言ってないが感づいているだろう。」
「そうですか。」
「あれは本当に芯のしっかりした良い女だ。しっかりし過ぎて疲れる時もあるがな。」
寂しそうに笑う氏を見ていました。
「圭一はまだまだこれからの人間だから一生あれの面倒をみてやれない事は十分わかっているつもりだ。ただ‥私がいなくなった後も良い男ができるまで気にかけてやってくれれば良い。」
「いつ?」
「医者からはすぐにでもと言われてるが。今日行った時に決めてくるよ。」
夫人は気高な人だった。
入院が決まり,病気の事を知らされても人前で悲しむ素振りも見せずに氏を励ました。
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