〈長文・最終回〉
26人いる所属部員が、校庭に集合した。
クラブリーダー(部長みたいなもの)が淳子先生を連れてくる。
「重い楽器を持ってパレードするには体力が必要です。今から走ってトレーニングし
ましょう!」
なんだよそりゃ。ガチもんの吹奏楽部かよ。俺は正直そう思った。
「体調が悪かったり、事情がある人は手を挙げて!」
淳子先生の呼びかけに対し、一人の生徒が手を挙げた。優里花だ。
先生は意外そうに
「優里花、どうしたの?」
と彼女を見たが、その瞬間、事情を察したようだ。
優里花の足元は、今朝からずっと履いている、Kartell長靴なのである。
稲刈りに、揉め事にと酷使されたグレーのKartell長靴は、今日初めて履いてきたと
は思えないほど、薄汚く汚れてしまっている。
淳子先生は仕方なく、
「優里花以外は、これからグラウンドを3周ね!」
と指示を出し、優里花を手招きした。
優里花はただ一人立ち上がり、先生へと向かって歩みだす。
半袖短パンの涼しげな恰好に対する、足元の長いKartell長靴のギャップはやはり何
度見てもたまらない。
薄い泥汚れと、先ほど付着した鼻水(中編を参照)も、その長靴に花を添えている。
俺達がヒイヒイ言いながら走っている間、優里花は行進するためのガイドラインを引
いているようだ。
100メートルほど進むたびに、白線の石灰を補充するために、体育館の物置小屋へ
と向かい、スコップで散布台車に石灰をくべるという手順だ。
1周・2周と、俺達がグラウンドを周回するたびに、優里花のKartell長靴は、下半
分が石灰特有の真っ白な色へと変わっていった。
恐らく、さっきの鼻水に石灰粉が吸い付いてしまうのだろう。
3周してゴールした時には、Kartell長靴は本来のグレーと、石灰の白、そして泥の
黄土色の3色に染まって、見るも無残な姿に変貌していた。
「さて、休憩したら皆自分の楽器を持って、ユニフォームに着替えましょう!」
との指示を受け、水分補給もほどほどに、全員音楽室へと戻った。
先ほど試着した、ユニフォームに再び袖を通す。やはり着心地がいい。心が躍った。
昇降口に毛布を敷いて、置いていた楽器を持って、再び校庭に出る。
その中には、もちろん優里花の姿もある。さすがに長靴でも行進はできるだろうとい
う、先生の考えのようだ。
優里花も、新しいユニフォームに、大好きな楽器(グロッケン)。
そして何より、今日で一層愛着が湧いた、Kartell長靴を履きながらの練習である。
楽器を持ったまま、自慢のKartell長靴に足を通す。少し苦戦したが、なんとか履け
たようである。
先ほどの体育着の格好でも、ギャップがあって良かったが、さすがにユニフォームと
のマッチングはその比ではない。
鳥の羽の装飾がついた、白基調のウエストポイント帽。
袖付きの、白いタスキが掛けられた、襟が立っている青色のシャツ。
折り目のない自然なシルエットが、実に魅力的なブラウススカート。
少しだけ途切れる、スカートと長靴の間に垣間見える、生足。
そんなユニフォームに調和した色遣いで、美しい造形のカルテル・ソフィア長靴。
そんな優里花が肩に掛けるのは、光が反射して眩しく光る、マーチンググロッケン。
もう、目が離せない。色っぽいという、安っちい言葉では到底表しきれそうにない。
大きなグロッケンで足元がよく見えない優里花は、行進練習の途中で何度も、よろめ
きそうになったり、長靴で盛大に砂を蹴飛ばし、巻き上げながら行進する。
それでも懸命に、グロッケンの演奏に取り組んだ。
努力する優里花の凛々しさ、美しさに俺も思わず感化されていった。
その姿は、昔の気の弱い優里花とは全く違って見える。
たくましく、それでいて自信満々に自己主張する。その姿はもはや立派な中学生だ。
2時間ほどの練習だっただろうか?俺には一瞬のことに感じられた。これほど本気で
努力したことなんて、今まであっただろうか。
頑張ることって、こんなに気持ち良いものなんだ。優里花のお陰で、俺は気づいた。
少し西日が差す頃、クラブ活動は終了した。
再び体育着に着替え、無心で学校を後にする。優里花とは同じ地区なので、一緒に帰
ることになった。
夕暮れ時の赤い空が、隣を歩く、疲れ切った長靴少女を優しく照らす。
「今日は、色々とありがとう。」
予想外の言葉に戸惑いながらも、下心で彼女の足元を見る。
乾いた砂が付着した、Kartell長靴。もうドロドロどころではなく、ボロボロに草臥
れて見えたが、そんなの気にしないほどに優里花の歩みは自信満々だ。
ふと、
「私さ、長靴履いて安心してたんだ。ここの中なら弱い自分を隠せるって。でも、そ
れが正しいとは限らないんだね。それに早く、パレード本番来ないかな!」
その言葉に隠された意味を、俺は察してなんだか急に寂しくなった。
優里花は、もう長靴にすがって生きることはしないのだろう。わざわざ、長靴を履く
ことも無くなってしまうのだろうか。
俺は、力なく
「そうかもね。でも明後日から雨が続くみたいだから暫く練習できないかもよ。」
その答えに、優里花は目を輝かせ、
「マジ?またこの子(Kartell長靴)を履かなきゃ!帰ったらお風呂で洗おうかな♪」
それを聞いて、俺は安堵するとともに、やや拍子抜けした。まだKartell長靴を履く
気満々なようだ。長靴に対する愛も相変わらずである。
その高ぶった声は、まだ小学生である幼さを感じさせた。
翌日、晴れ渡った空の下、優里花は学校に登校した。
もちろん、カルテル・ソフィア長靴を履いている。昨日の泥汚れはウソのように、ピ
カピカに磨かれていた。
優里花の、Kartell長靴ライフは始まったばかりなのだ。
(余談だが、この時点で幼稚園からであった優里花との付き合いは、中学校でも同じ
吹奏楽部のメンバーとして、まだまだ続いて行くことになる。その話は、また今度
にしよう。)