〈長文につき前編〉
あれからもう10年程の月日が流れた。今でも忘れ難い体験である。
それは、残暑の厳しいある秋のことであった・・・
・・・俺は今、小学6年生。あと半年で卒業だ。
今日は9月12日。学校で稲刈り体験がある。前日まで降った雨は、すっかり止んで
快晴だ。学校指定の服装は、長袖ないし半袖の体育着、軍手そして長靴だ。
本当は、虫に刺されるから半袖はイケないのだろうが、今年は暑いので特別許可だ。
突然だが俺は、長靴フェチだ。自分で履くのも、人が履いてるのを見るのも好きだ。
但し、長いやつに限る。短いのなんて何がいいんだ。中途半端だし、雨水や泥が入っ
てきてしまうじゃないか。
ウチのクラスには、穂香(ホノカ)ちゃんがいる。穂香は5年生の時に買ってもらった
長くて格好いい長靴を履いてくるだろう。巷で流行りのハンターとかいうやつだ。
他の子は、雪国というのもあって、レディースデザインのゴツい防寒長靴であろう。
俺のも某ホームセンター製のやつだが、この際どうでもいい。早く穂香の長靴姿が見
たい。
待ちきれず、少し早めに家を出る。体育着で片手には長靴の入ったビニール袋だ。
数軒先の男友達と合流して登校班を形成した。そして少し先の平屋へと歩きだす。
平屋はトタン屋根の簡素なつくりで、広い庭には雑草が生い茂っている。
同クラスの、優里花(ユリカ)ちゃんの家だ。
見た目から察するように、優里花の家は少し貧乏だ。片親である母親はパートで日中
はめったに姿を見ないし、子供の面倒は叔母に丸投げな様子だ。
優里花の服は最低限のものであり、学校に着てくるのは質素で飾り気のないものばか
りだ。
当然、優里花の長靴も年季が入っており、最近まで履いていたのは小3辺りから使っ
ていたものだった。
しかし小3では十分だった大きさも、優里花の成長についてこれず、もはやくるぶし
丈の長靴と化してしまっている。表面も元は光沢のかかった赤色だったのだろうが、
長年の酷使によってグロスコートは槌がれ、表面は色あせて淡いピンク色っぽくなっ
ていた。実に痛々しかった。
そんな事情があったので、優里花の長靴には大して期待していなかった。
いつもの時間に家の前に到着する。しかし、5分以上待っても出てくる気配はない。
学校までは2キロ程あるので、悠長に待ってもいられない。
イライラが募った俺達は、玄関先まで入ってインターフォンを押した。返事はなし。
「すいませーん」と戸を叩くと、中から優しそうなお婆さんが出てきた。
優里花のお婆さんだ。俺達が優里花を迎えに来たことを告げると、廊下に向かって大
声で呼びかけて、玄関の戸を開けたまま家の奥へと行ってしまった。
数十秒後、優里花が廊下から姿を現した。体育着に赤いランドセル。そして両手に抱
きかかえられた、黒くて大きな平ったい箱。箱には英語で「Kartell」と書いてある。
「ごめんね、待ったでしょ?」
と言いながら、優里花は箱を開け、少し恥じらいながら中身を取り出した。
優里花の手に握られていたのは、グレーのロングブーツに見えた。
丁寧に2足揃えて土間に置く。とても柔らかな素材のようであり、両手でブーツ両脇
に付いている、ダミーのベルトを押さえながら、ゆっくりと脚を入れていった。
俺は、脚を入れた時の「ぐにゃっ」と曲がる質感を見て確信した。これはゴム長靴な
のだ。
つま先から足首を伝って、膝へと至るシルエットは細身であり、実に美しい女性的な
デザインとなっている。まるでシンデレラが履くようなガラスの靴を連想させた。
グレーの色は、若干白色がかっており、その表面は落ち着きのある艶消しのオトナ仕
様だ。
そして履き口の後ろ側には、箱と同じく「Kartell」の彫刻が入っている。
長靴は一見ローヒールに見えるが、筒のグレーの部分と、ヒールの黒い部分とで色が
分かれている。ヒールは横から見ると緩い3角形になっており、5センチ位のハイヒ
ールのようである。
ハイヒールは安定感のある一体造形に思えたが、後ろから俯瞰するとヒール幅がかな
り細い。少し歩きにくそうである。
不安定なハイヒールに不慣れな優里花は、少しよろめきつつ、立ち上がって玄関を出
た。
小6ながら150センチ後半ある優里花の身長に、ヒール含めて45センチもありそ
うな、グレーのKartell長靴は、とてもお似合いである。
しかし丈が長すぎるのか、長靴の履き口は、高身長である優里花の膝小僧をも半分隠
してしまっている。
コンパクトにまとめられたお団子髪。青色で長袖短パンの体育着。背中には赤いラン
ドセル。そんな優里花の足元は、今の格好には不似合いな、エレガントなゴム長靴。
短パンに長靴の組み合わせに、子供っぽさは全く感じられず、むしろオトナのコーデ
らしい妙な色気を感じさせた。
(この長靴は恐らく、カルテル社の「ソフィア」と呼ばれるゴム長靴だと思われる)
俺は、学校への道中で意を決して聞いた。
「その長靴、長くて可愛いね。そんなのどこで売ってるの?」
優里花は少し照れながら、
「ありがとう!これ、外国製なんだよ。取り寄せてもらったんだ。凄いでしょ!」
と返してきた。
さらに聞く。
「うん、でも高そうだね。」
すると、
「2万円だったよ。どうしても欲しかったから、誕生日プレゼントを2年我慢して、
やっと買ってもらったんだ!」
もう稲刈り時に履くまで待ちきれず、家から履いて登校しようと思ったのだろう。そ
の嬉しい気持ちが十分に伝わってきた。
しかしいくら嬉しいからと言って、明日で中学生にもなろうという6年生が、晴れの
日に堂々と長靴を履くというのは、やはり女性物ゆえのデザイン性があるからなんだ
ろう。俺の心に少しの嫉妬心が生まれた気がした。
「でも今日稲刈りだよ。汚れちゃうしもったいたくね?」
俺が返すと、
「雨なんて昨日で止んで、こんなに晴れてるし、もう土も乾いたでしょ。」
と願望の混じった答えだ。絶対そんなハズないと内心思った。
普通の長靴とは違う、ハイヒール特有の軽やかな足音を立てながら、学校に着いた。
優里花は踵を手で押さえながら、少し苦戦しつつ長靴を脱いだ。脚のラインに沿った
デザインはフィット性が抜群のようだが、それが仇となってしまっている。
なんとか脱いだ様子だが、長すぎる丈は、当然下駄箱に収まるワケがなかった。そん
な時は、筒を折って強引に入れるというのが普通であるが、優里花の高級長靴は新品
でありピカピカだ。
もちろんそんな事できない様子で、暫く考えたのちに下駄箱の上に、丁寧に置いた。
今日は木曜日、本来ならばクラブ活動がある日だ。しかし稲刈りである。稲刈りは半
日かけて行われ、終わったら少し早めの下校となるだろう。
前述の長靴が履ける、見れるという理由と合わせて、俺は有頂天だ。
長靴に履き替えて校庭へ出る。そこで学年集会が行われ、田んぼへと出発した。
同クラスの穂香は、去年に続き、ハンター長靴を履いている。当然、クラス女子から
はオシャレさんという認識で注目度も高い。
しかし今年は一味違う。そう、優里花は自慢のKartell長靴だ。
去年は最高にイカしていると思っていた、ハンター長靴も、Kartellと並ぶと一気に
普通の、野暮ったいゴム長靴に見えてしまった。
ハンター以上に長く、なおかつ美しいシルエット。各部のデザインも、比べるまでも
ない程にKartellは洗練されている。
穂香のハンターは、黒色だったのもあってかまるで、魚屋の履くゴム長靴みたいだ。
担任の淳子先生は、去年までのハンターべた褒めが嘘だったかの如く、Kartellに惹
かれている。やはり知名度ではなく、デザインの方が重要なのだろう。
普段は物静かな優里花も、今日は注目の的となってテンションが上がっている。
穂香は少し、面白くなさそうだ。
30分ほど歩いて、山際の田んぼへと到着した。早速、担任が生徒全員に鎌を手渡し
て作業を開始する。
刈り取りは、出席番号順に男女混じって、一気に進める手はずである。刈り取った稲
を、50メートル離れた脱穀機にペアで運びながらの作業だ。
俺は後ろのほうの番号だが、運のいいことに優里花とペアになった。
初めは平地側の稲刈りで、今日の晴れ間もあって、田んぼはすっかり乾燥していた。
優里花は、綺麗なままの長靴を皆に見せびらかせることもあってか、機嫌がいい。
高く昇った日に、綺麗なグレーのKartell長靴が照らされて、とても眩しく輝いた。
作業は順調に進み、山側の稲刈りへと突入する。すると段々と、地面が悪くなった。
山影だからなのか、田んぼは湿り、所々に水たまりが残っていた。
優里花も嫌な予感がしたようで、先の地面を心配げに見ている。
しかし作業を止めるわけにもいかず、俺達は一歩一歩、泥濘の待つ水たまりへと近づ
いていく。
段々と、靴底に粘度の高い泥の感覚が伝わってきた。泥は少しずつ深くなる。
優里花は、大切なKartell長靴を汚すまいと、慎重に歩みを進める。脱穀機に稲を運
ぶときも、長靴のために、乾いた畝の上を通るほどだ。
優里花の慎重さも相まって、Kartell長靴は本来の綺麗さを保っている。少し泥がは
ねてしまっているが、優里花は長靴を見回して、ご満悦なようである。
稲刈りも、ついに残り4分の1ほどの面積となる。
俺は、刈り取った稲を持ちながら、畝の上を、優里花の後ろについていく。しかし、
優里花越しに、畝の上をこちらに向かってくる人影が見えた。
その子の足元には、黒くて長いハンター長靴。そう、穂香である。
あちらも稲を置いた帰り道らしく、手ぶらである。穂香にも高級長靴を履いているプ
ライドがあり、穂香もまた、長靴を汚すまいと乾いた畝の上を通っているようだ。
畝の左右は、連日の雨でヌカルミと化した田んぼだ。
しかしせっかくのハンター長靴は、優里花のKartell長靴を前にして存在が薄れ、今
日はあまり褒めてくれる人がいなかった。
そんなプライドと今日の不満が募ったのか、穂香は優里花に進路を譲ろうとしない。
稲のせいで前がよく見えない優里花は、穂香に軽くぶつかってしまった。
「あ・・・ごめん。」
物静かで気の小さい優里花は、小さい声を絞りだした。
穂香の怒りは爆発寸前だ。
穂香は陽気で目立ちたがり屋だ。そんな私が、何故こんな地味な奴に注目度で負ける
んだ。そんな感情が伝わってきた。
穂香は一言、
「あんた、痛ってぇんだけど。」
と田舎訛り混じりに不満を漏らす。
「ほんと、ごめん・・・ゴニョゴニョ」
と混乱した優里花が不完全な言葉を返した。
俺はすかさず、
「稲持ってるんだから、どいてあげればよくね?」
と優里花をフォローした。
正論を前に、2人から責められたことでついに穂香の怒りは爆発した。
「いいからはやく、どけや。うぜぇんだよ。」
と強く優里花を押しのける。
優里花はバランスを崩し、持っていた稲をばら撒きながら、畝から田んぼへとよろめ
きながら落ちた。
畝の高さはせいぜい30センチ位で、大した高さではない。しかし、雨で緩んだ田ん
ぼはぬかるんでおり、Kartell長靴の細いハイヒールは、泥の中に没してしまった。
幸いというべきか、泥の深さは大したことなく、Kartell長靴は足の甲辺りまで、10
センチほど沈んだだけで済んだ。
穂香は笑って、
「うわ、ごめーんwあんたの長靴ドロドロになっちゃったね!!」
と清々したかのようにルンルンと帰っていった。
優里花はショックを受けながらも、小さく数度謝罪を言って、我に返った。
力を入れて、ぬかるみから長靴を抜く。Kartell長靴のフィット性は抜群といったとこ
ろで、粘度が高いヌカルミでも足から脱げる事はない。
グレーの美しいKartell長靴は、足の甲まで、まるでツートンカラーのように泥に染ま
ってしまった。
それを見た優里花はなんと、汗拭き用のタオルを取り出して、長靴にこびりついた泥
を拭き取ろうとゴシゴシしている。
しかし、粘度の高い泥は、なかなか手ごわく、長靴の表面にヌルっと伸びていった。
なんとか泥の塊を拭き取ったようだが、長靴の色は埋まったところが、黄土色っぽく
汚れたままだ。
優里花はため息をついて、しぶしぶと稲刈りに復帰した。
それからしばらく作業は続き、稲刈りは無事に終了した。
優里花は稲刈りが終わると、すぐさま用水路を探したが、あいにく用水路は小さく、
長靴を洗う生徒でごった返していた。
順番待ちの間に、先生が帰ると合図したので、優里花も仕方なくそれに従った。
しかし改めて優里花の姿を見ると、まだ割と綺麗な体育着。長袖と短パンに、短パン
から伸びる生足、極めつけは薄汚いKartell長靴である。これを履いて晴れの中を歩
いて帰るのかと思うと、小学生ながらかなり興奮した。
優里花にとっては、田んぼに落ちて自慢の長靴が汚れたりと、散々であっただろう
が、今日は良いものを見せてもらった。来年からは中学生となり稲刈りもなくなる。
少し寂しく感じつつも、帰ったら午後は何をしようと考えている間に、学校に着いた
「今日はお疲れさま。皆が刈り取った稲は、この学校の給食として使われる。」
学年主任が締めくくりの言葉を言って、半日の稲刈り体験は終了した。
早速帰ろうとする生徒の前で、担任の淳子先生が呼びかける。
「器楽クラブの生徒は集合してくださーい!」
俺も優里花も、立ち止まってくるっと向きを変え、担任のほうを見る。そうだ、双方
器楽クラブに所属していたのだ。
何か、嫌な予感がした。
続く・・・