昭和30年代だと、九州方面の寝台特急は東京行きしかなく、大阪・九州間のい
わゆるブルトレが登場したのは昭和40年なので東京まで出て、上越線で新潟と
いうルートはありうるが、最短距離で考えるなら、大阪乗継で、東海道、北陸
(未だこの当時湖西線は開通前)信越の経路で新潟へ行くのが普通。
宮崎、熊本の県境の寒村と言えば椎葉村。ここは昭和42年まで一日三食米食が
できないほど貧しい地区であり、椎葉ダムができて初めて稲作が可能になった
地区である。
建設省の役人がダム建設の視察に来たとき、普通なら酒の席に芸者の一人も呼
ぶのが普通だが、貧しい村とてそれも叶わず、土地のご婦人に村長が五木の子
守唄を聞かせてやってほしいと依頼。歌って聞かせたところ、教科書で習った
歌とメロディが違うとの指摘を受けた。村長、その時あわてず騒がず、これが
本物の五木の子守唄でございますと返答。建設省の役人は本物を聞かせても
らったと大満足で帰京されたという話が伝わっている。
これが話題になり、本物のメロディを聞きたいと、ダムができたために車が
やっと通るようになった辺鄙な村に観光バスで客が大挙して押し寄せるように
なり、村も観光収入で豊かになったそうだ。
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