親父の親、まあ俺の祖父も医者だった。
内科医であり小さいながらも他県だが開業医として医療を行っていたが親父が高校に入った頃に母親は亡くなっていてこの父親も俺が生まれた年に亡くなっている。かろうじて祖父は俺という孫を抱くことができたようだ。
当時の親父と祖父の関係がどうだったのかは聞いたことがない。祖母ともだ。ただ、当時を知る地元の年配の方の話から俺が生まれる時、親父は妻と別居だったらしいことは分かっている。
俺が生まれた時にも祖父は産科にきたが親父は行かなかったようだ。その辺りの事になるとその方も口を濁してそれ以上は語ってくれなかったのでわからない。
その祖父は俺が生まれて数ヶ月後はに心筋梗塞で他界してしまった。
俺は物心つくまで母親に育てられていたが母親も親父と競技離婚していなくなると親父に引き取られて生活をしていた。ほとんど家政婦に育てられたのと変わりはない。親父に遊んでもらった記憶も全くない。
そういう意味では俺も決して幸せな幼少期を送っては来なかった。
そんなわけで親父の生い立ちについての情報は持っていない。
俺が6年生の時に後妻から妹が生まれた。
この継母が親父が言うには「真性のマゾ」だったらしく親父の部屋の片隅にパーテーションで仕切られた中にある怪しげな物たちを使っていたようだ。
長い間妹と親父の部屋の間にある8畳の部屋に布を被せてあった物たちだ。この部屋には家政婦も立ち入りを禁じられていていつも鍵がかかっていた。
その廊下を挟んで向かい側にも6畳の部屋があり今はクローゼットとして使われている。
継母は俺には優しかった。とても両手足を拘束され三角木馬に股がって鞭打たれてヨガリ狂っている女性とは全く思わなかった。
新ママにはかなりその亡くなった妹の母親の話を聞かされているようだ。
新ママが装着されていた貞操帯はそのお下がりだ。
「これをつけてスマした顔してな、よく出掛けたもんだ」親父からそう聞いたと言う。時には児童公園に出掛けて砂場で遊ぶ子供たちの目の前のベンチに座って足を上げてそれをガキどもに見せては革の前垂れの色が変わるほど濡らしていたとも話したという。
俺は一度もそんな姿を見たことはなかったがそれでも深夜俺が眠るベッドに親父と二人で入ってきて俺の眠る顔の上で後ろから抱えられて駅弁をされているのを見た記憶がある。今にして思えばあれは角度的に言ってアナルセックスをしていたのではないかと思う。二人とも荒い呼吸を忙しなくしていたが最後には親父が苦しげな呻き声あげると妹の母親を下ろして親父は部屋を出ていった。しかし俺は忘れない。親父が出ていくと俺の布団を彼女はなおしながら囁いたのだ。
「ごめんね……わすれようね」と、俺が目覚めていて一部始終を見ていた事を彼女は知っていたのだろう。
俺が幾つだったかは記憶には無いが……まだ低学年だったのか俺と風呂に入っていたとき俺のペニスの皮を剥いてくれた。特別なイヤらしい事はされなかったように思う。毎日風呂に入っては剥かれるのだ。そして出ている白い亀頭を優しく洗ってくれたのだ。
そのうち皮は戻らなくなり亀頭が露出したままになると自分で洗うように教えてくれた。彼女に洗ってもらっている時に勃起をしたようには思うがよく話にあるようなフェラなどはされなかったし扱かれもしなかったと思う。もちろん俺は射精などできる年齢ではまだなかった。そのお陰で今は普通のペニスでセックスには不自由をしていないわけだ。
その優しい継母のお腹が大きくなると不思議なのと妹がその中にいることを聞かされて生まれるのがものすごく楽しみだったのを覚えている。
前にも書いたかも知れないが俺が触ってもいいかと尋ねると優しく微笑んでくれて俺の手をとり「どうぞ、触ってあげて」と大きなお腹に俺の手を誘った。そして「ここにあなたの妹がいるのよ?」微笑んでそう言ったのだ。俺が笑って見上げると同じ様に笑顔で頷いてくれた。
今にして思えばこのときから既に俺は妹の事が大好きだったのだろう。
だが、親父は俺とは全く違う意味で妻のお腹の子供を考えていたのかもしれない。そして舌舐めずりをしながら自分の性癖の処理をさせる計画を練ってはほくそ笑んでいたに違いない。
正にバケモノだ。
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