有難う御座いました。
しかし、スワッピングで妊娠を希望するとは、嘘ですね。そんな人はまずいない。
子供に「自分の父は誰か?」と尋ねられて、答えられないからだ。
貴兄の立派なスレに敬意を表して次の古典を提供します。
近松門左衛門の「虚実皮膜論」
ある人の言はく、「今時の人は、よくよく理詰めの実(じつ)らしき事にあらざれば、合点(がてん)せぬ世の中、昔語りにある事に、当世受け取らぬ事多し。さればこそ歌舞伎の役者なども、とかくその所作(しょさ)が実事に似るを上手とす。立役(たちやく)の家老職は本(ほん)の家老に似せ、大名は大名に似るをもつて第一とす。昔のやうなる子どもだましのあじやらけたる事は取らず。」
近松答へて言はく、「この論もつとものやうなれども、芸といふものの真実の行き方を知らぬ説なり。芸といふものは実と虚(うそ)との皮膜の間にあるものなり。
なるど今の世、実事(じつじ)によく写すを好むゆゑ、家老は真(まこと)の家老の身ぶり口上が写すとはいへども、さらばとて、真の大名の家老などが立役のごとく、顔に紅脂(べに)、白粉(おしろい)を塗る事ありや。
また、真の家老は顔を飾らぬとて、立役が、むしゃむしゃと髭は生えなり、頭ははげなりに舞台へ出て芸をせば、慰みになるべきや。皮膜の間と言ふがここなり。虚にして虚にあらず、実にして実にあらず、この間に慰みがあつたものなり。
絵空事とて、その姿を描くにも、また木に刻むにも、正真(しやうじん)の形を似するうちに、また大まかなるところあるが、結句(けっく)人の愛する種とはなるなり。趣向(しゅこう)もこのごとく、本の事に似る内にまた大まかなるところあるが、結句芸になりて人の心の慰みとなる。文句のせりふなども、この心入れにて見るべき事多し。」
(注…)
槌立役 善人の男の役。敵役、女形などに対する役柄をいう。
槌皮膜の間 皮と肉との境目のような微妙なところ。
槌文句のせりふ 浄瑠璃の中の会話の言葉。
ある人が言うことには、「この頃の人は、十分に論理的で事実めいたことでないと納得しない世の中で、昔話にあることにも、今の世では承知しないことが多い。だからこそ歌舞伎の役者なども、とにかくその演技が実際の在り方に似ているのを上手(な役者)とする。立役の家老職(を演じる役者)は本物の家老に似せ、大名(を演じる役者)は(本物の)大名に似る(ようにすること)をもって第一とする。(この頃の人は)昔のような子どもだましのふざけたこと(演技)は認めない。」(と。)
近松が答えて言うことには、「この論はもっとものようだが、芸というものの本当の在り方を知らない説である。芸というものは事実と虚構との、皮膜の間にあるものである。なるほど今の世は、(歌舞伎の役者なども)実際の在り方を念入りにまねることを好むので、家老(役)が本当の家老の身ぶり話しぶりをまねるとはいっても、だからといって、本当の大名の家老などが立役のように顔に紅脂、白粉を塗ることがあるだろうか。
あるいは、本当の家老は顔を飾らない(から)といって、立役が、もじゃもじゃと髭は生えたまま、頭ははげたままで舞台へ出て芸をするならば、(観客の)満足となるだろうか。皮膜の間というのは、この点である。虚構にして虚構でなく、事実にして事実でない、この間に(観客の)満足があったものである。
絵空事といって、その姿を(絵に)描くにしても、あるいは木に彫るにしても、実物そのままの形に似せる中に、同様に大ざっぱなところもあるのが、結局人の愛するもとなるのである。(芸の)工夫もこのように、実際のことに似る中に、同様に大ざっぱなところもあるのが、結局(本物の)芸になって人の心の満足となる。(浄瑠璃の中の)会話の言葉なども、この心構えで見なければならないことが多い。」(と。)
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