胸を患っていた幼少の私が寝かされていたのは、直射日光を避ける意味か
ら、裏廊下に面した北側の部屋だった。その部屋は、日当たりの良い南側の
部屋に襖一つで隣接していたが、不意の来客などの視界には入らない。部屋
と裏廊下との境は紙張りの障子で、廊下の先は竹林だった。つまりその部屋
は、秘め事に好都合な密室だったのである。
「さあ**ちゃん・お行水よ」と母が言う。母は廊下に「たらい」を運ぶ
と、バケツで井戸から汲んだ水を張った。練炭焜炉に乗せてあった「やか
ん」の湯を「たらい」に入れて湯温を整えると、母は私の寝間着を脱がし始
めた。
胸を患っていた私は、入浴を禁じられていた。発熱するからというのが、そ
の理由である。だから私は、、行水の湯で母に身体を洗われていたのであ
る。そして、医者の先生が家に来る日は、必ず行水させられた。そして私は
「お行水」が大嫌いだった。
「今日からは、お廊下でお行水してあげますからね」お風呂場よりもこちら
の方が気持ちいいでしょ」と母が言う。折りから季節は初夏だった。
母が手に石鹸を付けて、私の身体を洗い始めた。行水嫌いの私をなんとか変
えさせようと、母はいろいろと工夫したのである。季節によって行水の場所
を変えたのも努力だし、はじめは手拭いでごしごし洗っていた母が、いつの
頃からか掌で優しく身体を洗ってくれるようになった。「**ちゃん・お行
水は気持ちいいでしょ」「ほ~ら 気持ちいい気持ちいい」「すべすべすべ
すべ・お行水は気持ちいいわよね」と、歌うように言いながら、母は私の身
体を洗ってくれた。
私が「幼児オナニー」に耽るようになったのも、おそらくは母の手のせいで
ある。いつ頃からなのか記憶ははっきりしないが、私は添い寝する母の身体
に「おちんちん」を擦りつける癖が付いてしまった。そして、母はそれを許
していたと思う。この頃から、私は行水で「お尻」や「おちんちん」を洗わ
れると、必ず「おちんちん」が硬くなるようになってしまった。しかし、母
は一向に気にしないで、私の身体を洗ってくれたのである。「あれあれ・し
ょうがない子ねえ」と母は笑いながら「おちんちん」の皮まで洗ってくれた
のである。
誰が考えても、これが母子相姦などでない事は明白である。しかし、母が添
い寝で私を寝かせている間にする行為は、明らかに自慰だった。当時の母
は、私を行水させたり、私に添い寝したりする時には、近所の店で買った
「もんぺ」を穿いていた。「もんぺ」というと、農作業する田舎の主婦を連
想して「かっこわるい」と思うかも知れない。しかし、けっしてそんな事は
無い。私の母は、どちらかというと都会風の女だったが、この時代の主婦に
は珍しく化粧していた。そんな母が「もんぺ」を穿くと、また別の雰囲気が
顕れて色っぽかったのである。
母は、私が眠る迄の間に「もんぺ」の腰紐を緩めて、そこから手を差し込ん
で自慰に耽っていた。自慰をしながら子供を寝かせる女など聞いた事が無い
かも知れないが、これは事実である。だから私は、母の自慰を日常的に見慣
れていた。母の自慰が佳境に入ると、なぜか母は私の顔を伺い、そっと起き
出してトイレに駆け込んでしまう。そして母は、長い時間トイレから出てこ
ないのである。閑話休題・・・以後話を本筋に戻します