子供二人が社会に出て、子育てを終えて五十路親父になった。
週二、三回の夫婦の営みを終えて、俺の腕の中で余韻に浸る女房の横顔を眺めて、この女と人生を歩めて良かったなあと、愛しさのあまり抱きしめた。
そんな親父だが、先日、5年ぶりに出張があり、仙台に行ってきた。
仙台・・・大学卒業以来、近寄らなかった街・・・三十数年ぶりに降り立った仙台駅前のペデストリアンデッキが懐かしかった。
あの頃はなかった地下鉄東西線、そして仙石線まで地下鉄になっていた。
初日の仕事を終え、ホテルにチェックインした後、まちに出た。
俺の青春を置いてきたまち、あの頃の俺が彷徨っているような気がした。
まちなみの記憶は曖昧だが、真希の記憶は蘇った。
俺と青春を謳歌した真希、二人とも大学1年生で、男女交際は初めて同士、威勢の裸を見るのも初めてで、お互いの股間を珍しそうに眺めたのを思い出す。
今なら、18歳の女子大生の処女マンコなんて貴重なものだと思うが、当時は、その貝類に形容したくなる造形を興味津々に眺めてた。
マンコを広げて奥を覗く、18歳の乙女にとって、それは羞恥の極みだったであろう。
俺は、物珍しさに興奮してギンギンに勃起してたが、真希は真希で、その脈打つチンポをしげしげと眺め、カリの段差を弄り、金玉を摘まんでた。
今思えば、何とも微笑ましいカップルだったが、そんなことを続けていれば、マンコは濡れ、チンポは先走りを垂れ流した。
俺は、皮を被ったクリを摘まむようにして皮をめくってみると、真希が快感の吐息を漏らしたから、ここは女の子が気持ちよがるところなんだと、唾をつけて摩った。
真希は、身を捩って感じ始め、マンコはトロトロと愛液をあふれさせた。
お互い、辛抱できなくなって、チンポにコンドームを被せて、
「入れるよ…」
と言って、真希のマンコにめり込ませた。
「あうっ…」
処女膜が破れる瞬間、弾けるような感触だった。
安アパートの部屋で、俺と真希が思いを遂げた瞬間、忘れはしない。
この後、二人は覚えたての快楽に溺れ、日々、身体を重ねた。
クンニやフェラも覚え、どうすれば相手が気持ちよくなれるかを考えた。
俺は、普段は清純そうな真希が、淫らに悶えて喘ぐ姿が見たくて、どこをどうつくと真希がヨガるのかを見極めるようになった。
2年生になると、安全日に生挿入を試みた。
コンドームの隔たりがない生挿入は、信じがたい快感を俺と真希に与え、更に、愛し合う二人が直接つながる歓びを味わい、以来、生挿入で外出しになった。
真希も俺も、住んでたアパートは軽量鉄骨造の安アパート、激しい交わりの嬌声は、間違いなく部屋の外に漏れていた。
真希の喘ぎは、俺の部屋を訪ねてきた学友数人に聞かれ、
「普段、清純そうな真希ちゃん、めっちゃエロい声で喘ぐんだな。」
「エッチしてることだけでも信じられない真希ちゃん、見てみたいなあ。」
などと言われた。
真希は、ショートヘアの小顔で、良く言えば清純そう、悪く言えば田舎臭いイメージだった。
だから、高校時代のセーラー服着てのコスプレとかよくやってたが、ハメ撮りはNGだった。
小柄で細身の真希は、Bカップの胸がコンプレックスだった。
俺は毎回、大きくな~れと願いを込めて、真希の胸を揉んでた。
真希とのセックスは、田舎の女子高生と援交している錯覚に陥った。
小柄で細身、引き締まった感じの女体は、陸上少女を犯してる気分だった。
生で堪能したマンコは、少しずつ赤く色づいてゆき、ビラが育っていった。
お互いの身体のあしらい方にも慣れて、真希に生理が来れば、真希は手コキで抜いてくれた。
風呂場で俺だけ裸になって、真希にシコシコしてもらい、ドピュンと射精してた。
「いっぱい出たね~」
なんて言われて、気持ちいいけどかなり恥ずかしかった。
真希に生理が来たら、大学で、
「ごめん、今朝来ちゃったから、セーラー服着て手でしてあげるね。」
なんで純情顔で言うもんだから、学友たちにうらやましがられた。
「お前、真希ちゃんにセーラー服着せてやってるのか?」
「まあ、たまにね。」
なんて、更にうらやましがられた。
4年生になった頃には、真希のマンコは紅色に色づき、ビラも内側に捲れ始めた。
お互い自分の地元に就職を決め、卒業したらお別れだとわかっていたが、それを口にすることはなかった。
真希が大好きで、ずっと一緒にいたかったけれど、長男の俺は実家を継がねばならなかったし、真希も田舎に戻る約束での進学だった。
安アパートを引き払い、最後の夜は、まちなかのホテルで過ごした。
そのホテルに俺は、出張で泊まった。
真希との最後のセックスを思い出していた。
繋がったまま、抱き合ってずっとキスしてた。
切ないセックス…もう、二度と会うことのない二人は、燃え尽きるように交わった。
さよなら…さよなら…と腰を振った。
最後の精液を真希に振り撒き、別れのセックスを終えた。
そして、抱き合って眠った。
翌日、お昼までデートして、ランチを食べてから分かれた。
新幹線の改札前で、
「真希のおかげで、楽しい大学生活だったよ。元気でな。さよなら。」
「今までありがとう。元気でね。さよなら…」
俺は新幹線の改札を抜け、真希に手を振ってホームに向かった。
真希は、仙石線乗り場のある東口へ向かった。
当時、あおば通駅はまだ無かった。
女房と結婚しても、ずっと忘れられない真希だったが、2011年3月、真希の故郷が高波に呑まれた時、真希を想った。
別れたときには、まだ、携帯電話は一般人は持てなかった時代、連絡の取りようもなかった。
毎日、真希を想い、どうか無事でいてくれと願った。
今も、安否さえ分からない真希だが、あの頃の思い出はずっと胸にある。
三十数年間、真希との思い出が怖くて近づかなかった仙台で、俺の青春を輝かせてくれた真希との思い出に浸った。
真希が、無事でいてくれることと、真希の幸せを願い、ここに思い出を綴る。