「あたしも、お兄ちゃんも、60歳くらいまでなのかな…」風呂から上がり、濡れた髪の毛をタオルで拭き取りながら妹がボソッと独り言のように呟いた。タオルを洗濯篭に入れに立ち上がった妹は、居間に戻ると台風の情報を流すニュースを見ていた私の隣に座った。「あの道のコト、ニュースでやった?」「いや…」「何台か波に呑まれたよね?」「多分…」「大丈夫だったのかな?」「通行止めにはなっているけど…」「道のコトも、お母さんのコトも、私には大事件なんだけど、世の中では小さな、ニュースにもならないような出来事なのかな…」「母さんはともかく、道の方は明日ニュースになると思う。」「うん。」そう応えた妹は、私の右肩に頭を乗せて凭れ掛かって来た。右腕をテーブルに伸ばしてリモコンを取ると、テレビを消した。居間は少し暗くなった。「お兄ちゃん…」「ん?」「なんか、怖いね…」「そうだな。」薄暗い居間で、妹に凭れ掛かられながら無言の時間が過ぎていく。肩に感じる妹の重みが不思議と心地好かった。私は30歳、妹は27歳、それぞれに仕事を持ち、お互い都内近郊に部屋を借りて別々の場所で暮らしている。私と妹は特別に仲が良い訳でもなく、悪い訳でもなく、ごく普通の、それこそ、どこにでもいるような兄妹だったと思う。私も妹も、それぞれに付き合っている相手がおり、ぼんやりとだが、いずれ結婚するだろうと思っていた。実家の両親は、農園を営んでいた。裕福とまではいかないが、お金に困るようなこともなく生活してきた。一昨年、還暦を迎えたばかりの父が心不全で呆気なく亡くなった。母は自分だけの裁量で切り盛りできる農地だけ残し、ほとんどを手放した。今度は、その母が還暦を前に倒れたのだ。父を亡くしてから、盆暮れ正月以外にも2ヶ月に1回くらいは、私も妹も実家に顔を出すようになていた。父を亡くし半年程あまり元気が出ない様子だった母だが、この1年半程は明るさも元気も取り戻していたように感じていた矢先の連絡だった。父に続いて母も…というショック。休日だったにもかかわらず職場で病院からの連絡を受けた私は、妹にLINEを送り、一緒に実家からそう遠くない病院へと車を走らせた。珍しく関東から西へと進路を取った台風が来ていた夕方だった。母の下へと帰る為に遣った道。波が高くなっても越えないように計算され、更に高い位置まで築かれた防波堤で守られていた道。遣い馴れた近道だし、通行上めにもなっていなかったので、大丈夫だろうと判断した道。高潮と台風のうねりは、人間の様々な想定を嘲笑うごとく易々と防波堤を超えて、黒い塊になって私と妹が乗る車を呑み込むみたいに立ち上った。私も妹もフロントガラスの向こうの景色を前に、声を失うような恐怖に支配された。間一髪で直撃を免れた私たちは、来た道を全速で戻り始めた。背後から砕けた海水が道を走って追い掛けて来る。防波堤に次々と打ち付ける高波は、私と妹の逃げ道を塞ぎ、行き先どころか命までも無くそうとしてるかに思えた。色々な出来事が一度に起きた。私も、妹も、想像もしていなかったような、非日常的な出来事が。意識を失ったまま眠る母を見舞い、実家に戻った時、私と妹は、それぞれ今の状況に言いようのない不安と死に対する漠とした恐怖を抱えていたのだと思う。いつもとは違う出来事の連鎖に、二人とも心細さと頼りなさでいっぱいになっていた。私と妹は、ほの暗い居間に寄り添って座ったままでいた。今の私の気持ちを解るのは多分この世で妹だけだろう…そして、今の妹の気持ちが解る奴はこの私しか居ないだろう。そんなことを思っていた。私の右肩に乗っていた妹の頭がフッと離れた。顔を右に向けると右腕越しに私を見上げるように見つめる妹と目が合った。妹は小柄で華奢な身体つきの為、年齢よりも幼く見える。容貌も色白で其なりに整ってはいると思っていたのだが、改めて見つめると驚くほど睫毛が濃くて長い。目も大きいと思うが黒目勝ちなドングリ眼だ。
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