私は昭和20年生まれの余命幾許もない老人だが、生きているうちに私の生まれ育った村の話を書いておこうと思う。
本当はその村の場所や名前を書いておきたいのだが、村自体が昭和の終わり頃に廃村になってしまったことと、近隣の部落も昔と違い、今ではそのようなことはないから東北の山間地の村に留めておく。
また、部落と言っても今の時代で言う被差別部落ではなく、村の一部なのだが農業や林業を営んでいた人々が村外れの山裾に形成した数世帯の集落をそう呼んでいて、呼ぶ方にもよばれる方にも差別意識など皆無だった。
世の中が何事もなければ普通の村であったはずだが、戦争の影響は村にまで及んだ。
つまり18歳以上の男は徴兵され、本来は徴兵免除だった長男も村長からの圧力で志願させられて戦争に行き、畑仕事も山仕事も女が主役になって働かねばならなくなった。
私は終戦の年生まれだが、父は私の出生を見届けることなく徴兵されて出征し南方で戦死し、長男の伯父も志願させられて硫黄島で戦死し、祖父も私が生まれる直前に病死した。
父は19歳、母は17歳で私を産んだが、出征を迎えた父を早く結婚させて家の後取となる子供を産ませようとしたが、残された母は再婚することもなく、廃村後は大きな町で暮らし、その町の病院で80歳で亡くなった。
その村で行われていたこと、村というよりは私の家があった集落で行われていたと言った方が良いかもしれない。
私の育った集落は私の祖父を頂点とする一族と、その使用人たちの家族で形成されていた。
年寄りから幼子まで人数にしたら50数人だったと思うが、戦争で働き盛りの男が次々と兵隊に行き、残った男と言えば年寄りと私のような子供ばかりだった。
しかも不幸なことに大半が半報や硫黄島で戦死してしまい、ほとんど復員する男がいなかったとのことだ。
私も子供心に覚えているが、とにかく村の女性がたくましく働いていた。
私も10歳になった頃には、学校が終わった後は畑仕事や薪割りなどを手伝った、当時は子供が家の仕事を手伝うのは当たり前の風景だった。
その頃から何かあると薄々思っていたことがあった、それは私よりも5歳年上の従兄が夜中学を卒業してから週に1、2度、用もないのに私の家に来るようになったことからだった。
私が「こんな夜になに?」と聞いても言葉を濁し、私や母のいた茶の間には寄らずに祖母の部屋に行き、小一時間もすると挨拶もせずに帰っていく、なんかおかしいと思って母に聞いても「さぁね、なんなのかね」と言うだけだった。
それが分かったのは私が中学を卒業してすぐのことだった。
5歳上の従兄は高校を卒業して東京の企業に就職して村を離れ、盆暮れに返ってくるだけになった。
中学の卒業式を終えて何日かたった頃に、その従兄の家にお祝いしてやると言われ呼ばれたが、その家には私にとって義理の叔母に当たる百合という女が一人で暮らしていたので何となく行くのが嫌だったが、母と祖母に「いいから百合んところに行って来い」と無理やり行かされたときに、祖母から「義理を果たして来い」と言われたのには引っかかった。
なぜなら私には百合に返さなければならない義理などなかったからだ。
当時の村内は「助け合い社会」とでも言えばよいのか、これも戦争の影響だと思うが、少ない男が中心になり村中の田畑を村人全員で作付けし、収穫量と労働力を考慮して公平に分配されていた。
だから私の母や百合のような戦争未亡人も田畑に出て一緒に働いていれば相応の物が分配され、食べていけないようなことはなかった。
但し私の従兄のように村を出て行った男に対しては、少ない収入から親への仕送りする金額を村の人たちが決めるという厳しい掟のようなものがあったから、従兄も苦労したのではないかと思う。
話を戻すと、確かお祝いの話があった日の翌日だったと思うが、夕方日が暮れないうちに百合の家を訪ねた。
周りには田んぼしかない山裾にある農家らしい無駄に大きい家だったと思うが、私が訪ねて行くと百合はワンピース姿で迎えてくれ、その姿を見て初めて百合を美人だと思った。
私が家に上がると何故か風呂に案内されたので、一旦は固辞したがどうしても入れと言うので仕方なく入り温まっていると、百合が一糸纏わぬ姿で入って来たので驚いた。
「寒いから入れて」と言うと、二人で入るには狭い丸い五右衛門風呂に体をくっ付けるように入って来て、体が温まると、私の体を隅々まで丁寧に洗ってくれたが、私のペニスははち切れんばかりに勃起していた。
そのあと、当時としてはかなり贅沢な食事を振る舞われ、ほんの少しだったが自家製の梅酒を水で割ったものを飲ませてもらった。
食事が終わると百合が「そろそろ」と言って私を奥座敷に行くように促した。
部屋は火鉢で暖められており、そこには一組の夫婦用の大きな布団が敷かれていて、百合は布団を捲ると、その上に乗って着ていたものを脱ぎ始め、私にも裸になって布団に来るように言った。
私はそこまで来て、やっと「お祝い」の意味が分かった。
百合に言われた通り、私が着ていたものを脱いで百合に近付くと布団に仰向けになるように言われたが、百合を見上げるとオーラのようなものを感じた。
百合は私の上に体を重ねるように乗ってくると、私の顔を数回撫でてから唇を重ねて来た。
そのあと私の体中を撫でたり舐めたりしていたが、それは初めて味わう快感だった。
最後に熱い口付けを交わすと百合は私のペニスに唾を垂らして濡らし、その上に跨るように挿入した。
百合は動き出すと唇を真一文字に閉じて声を殺した、百合の吐く荒い鼻息だけが聞こえるような感じだった。
私は快感に耐えきれず瞬く間に百合の中へ放出した。
百合はそれを察知すると腰を落として私の放ったものを全部受け止めてくれ、体を離す前に舌を使うような激しい口付けを交わした。
百合は体を離すと私に背中を向けて股間から私の精液を吸った脱脂綿を取り出して屑籠に捨てた。
そして私のペニスをちり紙で拭きながら、「かっちゃんとは血の繋がりが無いから接吻したけど、一郎(従兄)とはできなかった」と、母子相姦を告白した。
そのあとも百合から衝撃的なことを聞かされた。
村内では戦争中に男が徴兵されてほとんどいなくなってから、残っていた男、つまりは自分の子供や親戚の男、年老いた義父などを相手にすることが当たり前になった。
皆若くして未亡人になったが、再婚すれば身持ちが悪い、金に転んだなど狭い村の中で悪評が立つから、いつの間にか人知れず身内との性交渉で発散させるようになったということだった。
だから従兄も私の祖母と百合を抱いていたが、そのことは私の母も当然知っていた話だという。
祖母と言っても16歳で父を産み、その父が19歳の時に生まれたのが私だから、従兄が通っていたころは、祖母もまだ40歳半ばくらいだったから男の需要もあったのだろう。
そんな話を聞いてから、その夜は更に3回百合と交わりながら、性技をいろいろと教わって早朝に帰宅した。
私が帰宅すると祖母と母が迎えてくれたが、2人とも私が百合と何をしてきたか知っているだけに、2人の顔を見るのが辛かった。
前夜出がけに祖母から言われた「義理を果たす」は、祖母が従兄と同じことをしていたことを百合に対する義理、借りと感じていたからだろう。
その夜、私は母に「母ちゃんはそういうことをしてきたの?」と聞いた。
母は私の問いに首を横に振って「そういうことをしあっていることは知っていたけど、私はお父さんが戦争に行ってから誰ともしてないよ」と答えた。
私が特に気になっていたのは従兄としたのか?ということだったが、母が言うには「私はあの子の父親(父の兄)が大嫌いだったから、その息子となんかするなんて絶対に嫌だった」と答えた。
私はそんな母を不憫に思ったが、従兄と百合の関係を考えると私と母の間にも起こり得ることだと思うと、急に母のことが艶めかしく見えた。
何故なら百合よりも若くきれいな女だから、親子ということさえ気にしなければ全然問題ないと思ったからだ。
前の夜に百合から聞いた話しを母に話したが、母は否定しなかったし従兄と祖母とのことも、祖母に勧めたのは自分だと言った。
そこで私は母に「じゃぁ母ちゃんは俺とならできる?」と聞いてみた。
母は数秒黙った後に、「うん、かっちゃんとならしてみたいかな」と言ったので驚いた。
無いとは思うが、もしかしたら母は私の成長をそういう目でも見ていたのかと思と、少し恐ろしく感じた。
母が「かっちゃんは私としたいの?」と聞いたので、私は「うん」と返事をした。
すると母が「じゃぁ明日ね」と言ったので「明日?どうして?」と尋ねると、「昨夜は百合さんとしてきたんでしょう、だから今夜は嫌」と答えた。
翌日の夜、祖母が自分の部屋に行ったあと母から風呂に入って体をきれいにするように言われた。
そのあと母も入浴し、いつもならは少し離して敷いていた布団をぴたりとつけて敷いた。
裸になって布団に入ると、母が私の上に乗ってきて胸を舐めたり吸ったりしたが、母の体が凄く熱く感じた。
母はこういうことに不慣れだったのか、百合のようにスムーズに事を運べないようだったが、亡くなった父と僅かな時間の夫婦生活後は16年近くの間男関係が無かったことを思うと、そう言うものだろうと思った。
母が不意にペニスを口に含んでしゃぶり始めた、百合と比べたら上手ではなかったが、それでも凄い快感で射精しそうになったが、歯を食いしばって何とか耐えた。
百合から血の繋がった者同士の接吻は貞操であり禁じ手と聞いていたが、私が上になり母の乳を吸い体を舐めても声を殺して私のしたいようにさせていたが、秘部への口淫と接吻はダメと言ってさせてくれなかった。
それでも私が強引に唇を求めると母も仕方が無いという感じで応じたが、百合と交わしたような舌を使うような激しく濃厚な接吻は許さなかった。
後に「唇は商売女の貞操」ということを聞いたことがあるが、それと同じような意味合いだったのだろうか?
そのあと母と結ばれ、深夜眠りに就くまで2度交わり早朝にもう一度交わった。
翌日畑の雑用を手伝いながら母に何故接吻はいけないのか聞いてみた。
母が言うには母自身もよくわからないが、こういうことが始まった頃から言われるようになったということだった。
バカみたいな話だと思ったが、母が言うには身内同士の性交渉が始まり、何等かのトラブルが起こった時に老婆たちが集まって、いろいろとルールを決めたそうで、文章として残されてはいないが、一つは男が15歳になっていなければダメというもの、これは頷けるが息子が母のべっぺ(秘部のこと)や実(クリトリスのこと)を舐めてはいけない、血の繋がった同士は接吻してはならない、その二つは戦地に行った夫への貞操という訳の分からない理由で、性行為にまで及んでおいて貞操もクソもないと思った。
この中には避妊に付いても触れられており、スキンが一番いいが入手し辛いので脱脂綿や海綿を使うと良い、ということまで言われたそうだ。
だから百合も母も脱脂綿を入れていたのだとわかったが、本当に避妊の効果があったのだろうか?
私は母に「凄く悪いことしたとか嫌だって感じたの」と聞くと、母は首を横に振って「全然思わないけど、何となく後ろめたい」と言ったので、「誰も見てないんだから気にすることないよ」と言うと「そうね」と言って仕事の手を動かしていた。
それ以来母とする時も、普通に濃厚な接吻を交わしお互いの秘部を舐め合ったりした。
父への貞操と行ったところで、その父は靖国神社にいるわけだから私と何をしようが構わないだろうということだった。
私自身、高校に通いながら母と百合、そして祖母からの依頼で父の従姉に当たる戦争未亡人の藍子という3人の女と関係した。
中でも百合とは一番回数が多かったと思う、それは血のつながりが無い分変なルールに捕らわれずに、いろんなことをしてくれいろんなことを教えてくれたからだと思う、逆に藍子とたまにしかしなかったのは、ルールに縛られて何もさせてくれずに、ペニスをしゃぶられたあとは、ただ挿入して出すだけでつまらなかったからだ。
百合とは週2回激しく交わり母とは週に1度、土曜日の夜にじっくりした。
結局母に言われて高校を出た後は県内の国立大学に進学し、そのあとは就職して村には盆暮れに帰るだけになった。
大学生の頃は春夏冬の長い休みには実家に帰り、特に夏休みは2ヶ月もあったので母と百合、たまに藍子と3人の女とは関係を続けていたが、社会人になると実家に帰った時に母とするだけになり、私自身が結婚すると母との関係もなくなった、というよりも母がさせてくれなくなった。
この3人の女たち、私と関係していたのは性欲を満たすためであって色恋沙汰ではなかったからだろう。
3人も年を取り、私が35歳で結婚した頃には母はまだ43歳だったが、百合は50に手が届く年齢になり藍子は50を超えていた。
私の妻は私の地元の村とは全く縁もゆかりもない西の方の出身だ。
独身の頃、村に帰るたびに誰々の娘と一緒にならないか?などと言われていたが、その女の私が村の女相手にしてきたことを知っていただろうから嫌だった。
やがて村はなくなり、それぞれバラバラになった。
私が結婚した時に母を引き取ろうと思ったが、母の方が嫌がった。
ある意味村の風習だったとはいえ、20数年間母を抱いていた私と暮らせば間違いが起こるかもしれないと思ったからだろう。
しかし数年前にケーブルテレビで古い刑事物のドラマを見ていたら「黒い血」というタイトルの回で、村で起こった近親相姦が事件のきっかけというのを見てドラマの題材になるということは、私の生まれ育った村と同じようなところがあったんだと思った。
老婆たちが避妊に付いて触れていたのも、こういうことが起こらないようにということだったのだろう。
この国にも社会からは見えない、いろいろなことがあったのだ。