俺は兄姉がいる三人兄弟の末っ子だった。
親父は小さい建設会社を経営していて、俺の物心つく頃には家を出て、よそに女がいて、そこで女の子もつくっていた。
もっとも、うちの母自体も掠奪婚だったわけだが。
母からは兄弟の中でも溺愛されていたが、当時は何も感じていなかった。
小学校の高学年で精通があって、その前から自慰していたが、まだ母と風呂には入っていた。
母との最初の性的な体験は、母がやたらしつこく、俺の亀頭を洗ってきたことだった。
「ちゃんと洗わないとダメよ」と皮をむき、カリに溜まっていた恥垢を落としていた。
当然、堪えきれるわけもなく‥出た。
精通があったことは伝えていたから、母も驚きはせずに淡々と洗い流して、その場は終わった。
二度目は、やはり小学生時代で、家族でピザを食べに行ったときのことだ。
当時は、デリバリーとかもなく、都内でも珍しいピザハウスに行って、トイレに行きたくなったから、席を立った。
母も「私も行く」とついてきた。
てっきり、俺のあとに入るのかと思っていたら、一緒に入ってきた。
とりあえず、俺は小便をして、母にスペースを譲った。
母は洋式便器に腰をかけようとしていたから、俺は「女の人が、おしっこするの見たいから見せて」とお願いした。
今、考えると変態だよな。
母は「いいわよ」と即答し見せてくれた。
見てるうちに勃起した俺のチンポを母は咥えた。
入浴したのは、その前の晩だったから臭かったとは思うのだが、そのまま母の口に出し、母は飲んだ。
何事もなかったように、母とトイレを出て、席に戻った。
今、思うと奇異なことなんだけど、当時は、それを不思議ともなんとも思わなかった。
そして、それを再び望むこともなかった。
そのまま、中学生になり、兄貴に連れられて新宿のストリップ劇場とか行ったり、まな板ショーに上がって手こきで出されたりして、ピンサロにも行った。
幼かったからバレバレだったろうけど、昭和五十年代前半、世の中はおおらかだった。
高校生になってからはバイトもして、彼女もいたし、ソープにいったりもして性生活は充実していた。
その頃、親父の会社は倒産して、両親は離婚した‥元々、別居してたわけだから、何も変わらなかったのだが。
で、兄貴も姉貴も家を出て行った後、俺は高校から帰ってきて、ベッドで横になってたら、仕事から帰ってきた母がベッドの上にきて、「また、あんた、こんなところで湿りキノコを触って、いやらしい」とか言いながら、俺の股間に尻を押しつけてきた。
確かに、そろそろ自慰でもしようかと思ってたのは確かだった。
体位としては側臥位で、俺も返してるうちにフル勃起してきたから、母のスカートをめくり、パンツを下げて挿入した。
長い間、押し合いをしていたからか、母はずぶ濡れでツルンと入った。
母は無言で尻を差し出したままだった。
俺は、しばらくして母の中に出した。
母は風呂に入り、そのあとは寝室にと入っていった。
それから、母は再婚し、隣県へと引っ越していった。
俺も結婚し、母とは疎遠になっていった。
俺も四十代になったころ、母の再婚相手が亡くなった。
母も六十代後半だった、色々あり、母と兄貴は完全に絶縁していたから、姉貴と俺が葬儀の手伝いなどをした。
再婚相手の子は、再婚相手と絶縁しているらしく、資産などは要らないから、葬儀にも出ないということだった。
通夜が終わってから、いったん姉貴は自分の家に戻り、俺は母の家に泊まった。
布団を敷いて寝るときに、母は隣にきた。
疲れたのか、すぐ寝始めた。
不憫に思い、母の乳房をまさぐると小学生の頃に見たよりも小さくなって弾力もない触感だった。
もう片方の手で母の股間に手をやると、かなり濃かった恥毛は薄くなっている感じだった。
あとは母のパジャマのズボンとパンツをおろし、また後ろから側臥位で挿入した。
他の女とやるときは圧倒的に正常位が多いんだけどね。
母は寝たままで、俺は母の中に出し、そして俺も寝た。
朝になった、葬式の準備などをしていると、「昨日はありがとね、あんたは昔から優しかった」と言ってきた。
母との性的な関係は、これで終わった。
母は容姿は大原麗子を細面にした感じの美形だった、俺は若村麻由美とか戸田菜穂なんかが好きだから、多分、そのあたりで泥沼にはまらなかったんだと思う。
あと、母と姉貴の性格が強かったから、俺は妹みたいのが欲しくて、そっちを求めていった。
年上女に辟易していた、独身時代の恋人から嫁、今に至る不倫相手まで年下が圧倒的に多かった。
七十を越した母に、「何でああだったの?」っ聞いたら、一言、「寂しかったのよ」って返ってきた。
ごめん、たいしてネタにならないようなことで。