引っ張ってもアレなんで、ここで先にお話すると、その親友の妹、ここではB子としておきます。そのB子とはA子の死後、葬儀で久しぶりに会い、何というか、流れで男と女の関係になり、今も5年目です。またそこは後日。
B子とは幼稚園に入る前から、私と友達と一緒に3人で風呂に入ったり、遊んだりする兄弟同然の仲でした。
B子が中学に入った頃から、周りから余りいい噂は聞いてなかったのです。不良という訳ではないのですが、オシャレ好きなオマセさんで、性にも奔放なところがあるらしく、私の同級生からもB子の同級生からも、便利に楽しんでるような話が聞こえてました。男たちの下品な冗談話にいつもその名前が出てましたから。
私が二十歳くらい、B子が18くらいの時に一度、偶然に夜に駅前であった時に帰り道でさりげなく腕を組まれた事がありました。
何となく妙な雰囲気を感じたんですが、居心地が悪くてスルーした事を覚えています。
私にとっても妹同然でそんな対象ではなかったのと、何というか兄貴に瓜二つの顔付き、、男顔というか、、、私が欲情するタイプではなかったのです。その頃は。
その後も親友家族とはお互いの冠婚葬祭や年末年始など、何十年も変わりなく交流はありました。
B子は若くに隣町のひと回り年の離れた金持ちの地方の議員さんと、結婚して派手な暮らしを満喫して子供も3人恵まれていました。
私も30歳で3年付き合った女と結婚していました。
その結婚式に親友の母親、ここではA子としておきますが、そのA子も出席してくれました。そうです。私は25歳から親友の母親A子と肉欲と不思議な擬似母子姦みたいな感情で繋がっている真っ最中の結婚でした。
結婚式の直前にもA子に呼び出されて、これが最後、明日からはあなたの邪魔になるから我慢するから、いつもより激しく抱いて、、と迫られ2人で貪るように互いの肉体といいようのない背徳感を楽しんだばかりです。しかし新婚旅行の土産を届けたその日からまた前と同じ、或いはそれ以上に不倫としての背徳感が加わり体を貪りあったのですが。
そのA子とのプレイの内容はまた後ほどの機会にゆっくり。
その後、年を重ねても私は妻と月に数度の営みと、A子とも月に一度のペースで逢瀬を重ねていました。
25歳と50歳で始まり40代と70代まで。
30歳違いの擬似母子のような不思議な性欲。その倒錯感と背徳感に私は飽きる事なく欲情し続けていました。
妻との営みはその償いの様な気分で、興奮するのは残念ながらA子とのセックスでした。体が合うというか、お互い許されない異常な関係性がさらに興奮を高め、体も心も裸になって底なし沼の様に変態行為を貪りあったのでした。改めてまたお話しますが、例えば自分の母親を帯で縛ってスリッパでお尻を叩いて折檻した事ありますか?その体勢で興奮で泣いて許しを乞う母親の二穴にオモチャをねじ込んで、体を痙攣させながら、前後の穴から失禁して失神させた事ありますか?
またある時は、私が幼児帰りしてバブバブしてオッパイに吸い付きながら、ママに可愛いオチンチンねと、しごかれてここでオチッコしなさいと言われてションベン噴き出したこと、そして母親に私もオッパイほちいと、そのオチンチンに吸いつかれてションベンも飲まれて、その先の本当のミルクまで搾られたこと、、、。
その不思議なパターンは阿吽のうちに年齢や関係性を超えて、ある時はママと子供、ある時は幼児同士、またある時は逆転して父親とイタズラされる娘とほぼ無限でした。中年男と老女の肉体のままで。おぞましい話ですが。
A子が体調を崩してあっという間に認知になり施設に入る迄、そんな泥沼の様な20年弱でした。
A子は今思えば、擬似母子プレイという事を除いても、性的にかなり淫乱というか、積極的でした。口に出すのも憚られるようなアブノーマルなプレイも大好きでした。そんなところが私を飽きずに夢中にさせてくれたんでしょう。
そしてA子の没後、その娘B子と関係を持つのですが、そのB子も母親譲り、或いはそれ以上の性欲の強さと変態行為への積極さで私の心と体を離さないのでした。
また後ほど。
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