この話は俺が体験した中の、世間にあまり馴染みのないであろう住み込みでの工場勤務の実態と、これもまた馴染みのないであろうそこで出会ったネパール人との関係を描いたものです。
し、これから描く具体的描写が実際に存在する企業やそこに勤める人への誹謗中傷の暴露記事にもなりかねませんので、社名はもちろんのこと場所や時間や数字といったところは少しぼやかして(例:8時を9時と表現したり、1万円を1万2千円と表現したり)書いていくことを了承してもらえればと思います。
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俺は本田浩一郎(当時25歳)Fラン大学をなんとか卒業した後、就職活動に失敗してからは実家暮らしのニートをやっていた。毎日プラプラと街を出歩き、地元の友人知人と遊び歩く、そんなニート生活を送っていた。
そんな中で偶然、地元ではそこそこ名の知れた不良の滝田先輩(別名:ポン中タッキー)とばったり街で会ったことがこの先の俺の運命を変えていく事になっていく。
滝田先輩は俺からすれば5つ年上だった。したがって年齢差から中学など在学期間が被ったことはないが、滝田先輩の家は俺のほぼ向かいに住んでいた事もあり、滝田先輩は幼少の頃から知っている顔馴染みでもあったのである。
そんな滝田先輩は地元ではそこそこのワルで、中学の頃からシンナーを吸い始め、それから暴走行為、挙げ句の果てには覚○剤まで手を出したという噂があり、どこかの刑務所にもお勤めにいった事もあるとかないとか。そんな感じで地元ではヤ○ザの一歩手前といってもいい感じの人だった。
ところがどっこい。
数年ぶりに地元でフラフラしている俺と街中で再会した滝田先輩は、なんだか社名の刺繍が入った白のポロシャツを着ており、さらにナントカ支援センターとボディに印刷された軽自動車に乗っており、一見とりあえず何かの仕事をしている感じだったのである。
そして俺は滝田先輩と街中で軽く話したのだが・・・・。
なんと、滝田先輩は現在は社会福祉士、精神保健福祉士の国家資格を取得し、アルコール依存、薬物依存などの回復支援の仕事をやっている。というのだった。
(え・・?あのぽん中タッキーが・・?なぜ??)と、一体この人の人生になんの変化があったのか俺は驚きを隠せなかった。
タッキーの話に深入りするといつまで経っても本題に入れないので簡単に説明すると、タッキーの話を聞く限り、最後は刑務所まで入ったが出所のタイミングで更生を志し、それから真面目に働きそして勉強し、さらには国家資格を取得し、これまでの社会に迷惑をかけた生き様から、今度は社会や人を助ける側に転向した。というのは話の中で伝わってきた。
そしてタッキーの一言。
「お前、一応大学出てんだろ?じゃ、これから福祉の学校とかいってみろよ。社会福祉士の資格取ったらいつでも俺んとここい。道作ってやる」
と言われたのである。こうして滝田さんとの出会いを文章に書いてみても長い割には案外単純な内容ではあるが、当時の俺はこの言葉をかけてもらったことで、これまでの悶々としていた生活や夢や希望もない人生の中に一筋の光が差し込んだような気がして、(お、、俺もやればできるかな・・・・)とかなり前向きになっていた。その理由はあまりにも滝田先輩がカッコよく、そして輝いて見えたという事も大きかった。
そして福祉の専門学校のことを調べたが、壁となったのはやはり何といっても学費であった。親に相談して見たものの「お前を大学まで出させただけでもう十分じゃ。親の義務は終わっとる。自分でなんとかせぇ。本当にやりたいんやったら住み込みで何でもして金貯めてみろ。先にやる気見せろ。」と一蹴されたのだった。当然である。
そこで俺は手っ取り早く金を貯めれる方法・・・として考えて思いついたのが、大手自動車メーカーの期間工とまでは言わないが、ほぼそれと同意義といっても差し支えないであろう大手家電メーカーの工場へ住み込みで働く事を考えたのである。