良き父親像を演じている自分、
快楽に溺れている自分、
それぞれがその時においては真実なんだと思います。
その2つの真実をコントロールしているまた一人の自分がいる。
そのもう一人の第三者的自分こそが、
実は自分自身の正体なのではないかと。
そのもう一人の自分が、第三者から当事者になろうとしたとき、
すべてのバランスが崩れるのではないかと考えています。
冷めた目で両者を眺めるもう一人の自分、
それがしっかりしている限りは、まだ大丈夫(何が?汗)なんじゃないかと、
勝手に考えたりしています。
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