例えば「姓同一性障害です」「あ、そうですか」この会話の中にも認知される事の功罪が潜む事実に気付きませんか?
差別される可能性を多分に含む会話だと思われます。
そうですか、の後にその人がどう考えるかが大事なのであって、その場が上手く進行する、しないは、人権の話です。
表面に出るか出ないかだけの些末な事では?
受け入れられる事とは似て非なる物でしょう?
立場を守りたいのですか?それとも存在を受け入れて欲しいのですか?
立場を確立したいのであれば認知してもらうというのも一つの方法かもしれませんが。
世の中にはゲイと言う言葉が性同一姓障害という呼び方に変わっただけとの認識の人も当然います。
と、言うより建前はともかく、認知されたからといっても人間個人個人の感性、感情まで変えるのは非常に難しいでしょう。
逆に言えば分かってくれる人には社会認知はさほど必要ないだろうし、分かってくれない方には認知されてようがなんの説得材料にもならないでしょう。
社会的ポジションは少なからず得ているとは思います。
ただ、ネガティブなポジションに行ってしまっているのも否めない現実でしょう。
認知されると言う事は他人に対してマイナスからのスタートも有り得る、そして心の繋がりにはそんな物必要ないのではないか?
それが重要なのでは?との私の意見なんです。
他人との繋がりはさて置き、一人で生きていくのに人権を尊重されたい、との趣旨の書き込みならば私が言いたいことはないです。
そんな小さい事に私自身興味が無いので。
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