2 さんへ
なんか、感激してしまいました。
1週間ぶり?に思い出したようにこちらに来てみたら、
こんなところで(失礼)
稲垣足穂の名前を見るなんて
想像すら、していなかったから。
2さんとはもっとお話してみたいですね。
確か、松岡正剛が書いていたかと思うのですが、
澁澤龍彦が稲垣足穂の才能に驚嘆したとか。
(しばし瞑想)
そうですね。
一緒に気持ちよくなれたらよいですね。
わたしは、女性同士で愛し合う際
同性ゆえのジレンマを感じることがあったとしたら、
異性同士のそれと違って
凹凸の合理性に欠くことでした。
ある一瞬を切り取ってみると、
どちらかが受けて側にならざるを得ない。
なんか、それを申し訳なく
思ってしまったこともあるのです。
けど、そんなの愚問だと
大抵の場合切り捨てられました。
女性同士とはいえども
ネコの私からは
タチの彼女たちの気持ちはわからないのです。
バリタチではなかったので
少しは私にも攻め手側に回る機会はありましたが
気質によるものか、
それはなくても良い、というのが
彼女たちの本音だったように思います。
立場が変わると圧倒的に興奮度が違うらしく ^^;
はい、もう気が済んだ?みたいな。
ただ、人の脳は凄いなぁと思ったこともあります。
チャネリングというのでしょうか、
私の受けている快感を
相手が視覚触覚聴覚想像力まで全てフルに使った上で
シンクロするのです。
わたしは彼女に何もしていないのに
彼女が私を攻めるだけなのに
それなのに
彼女は、イッテしまったから。
代々木忠監督はAVの監督でありながら
哲学的なやくざみたいな人だなぁと思うのですが、
その著書の「プラトニック・アニマル」に
詳しく書いてあって、膝ポンしちゃいました。
ネットで転載している人を見つけたので
コピペしてみます。
>少々乱暴な言い方だが、相手を気持ちよくさせることなど、人間はだれもできないのではないかと、実は私は思っている。男でも女でも、人間ができるのは、本当は自分が気持ちよくなることだけなのだ。自分が気持ちよくなったときに初めて、その波動によって相手が気持ちよくなれるのである。したがって、男のオーガズムと女のオーガズムは、ちょうど合わせ鏡のようなものである。そして、実はこの波動が伝わり合うこと、それがチャネリングなのである。オーガズムに至るSEXでは、その過程で必ずチャネリングが起こっている。
男と女は、もともと一つのものが分かれたのではないか、と私は思う。だからSEXとは見方を変えれば、分かれた二つのものが一つに戻ろうとする行為とも言える。分かれた際、男は男的なる部分を、女は女的なる部分をたくさん持つことになった。それぞれ自分に足りない部分、つまり男は女的なる部分を、女は男的なる部分を求めてしまう。しかし、お互いが求め合ってもそれが得られないのは、すでに述べたとおりである。自分に足りない部分を相手から補って等分にしようとするのではなく、自分に多い部分を相手に与えて等分にしようとしたとき、二つに分かれてしまったものは元の一つに戻ることができる。そこには自分という名のエゴのバリアもない。
二人が100パーセントSEXを楽しんだとき、男は男の快感の波が、女は女の快感の波がお互いに伝わり合い、響き合う。そうなったときに初めて人間はイキ、そして失神までしてしまうのだ。だから、チャネリングSEXでは肉体すらも究極的には必要としない。
私がこのチャネリングSEXに気づいたのは、「目かくしFUCK」シリーズの一本を撮っているときだった。SEXをしているカップルのそばにいた別の目かくしした一人の女の子が、なにもされていないのに自然と濡れてきた。聞けば「感じる」と言う。そしてとうとう彼女はオーガズムに達してしまった。このように、イメージを送る肉体とイメージを受け取る肉体さえあれば、直接的な肌の触れ合いは必ずしも必要としないのである。チャネリングSEXの原点はイメージの世界である。
さて、このチャネリングがだれにでも体験できるのかという問題だが、チャネリングは決してある特別な能力を持った人だけのものではない。だれでも体験しようと思えばできるのである。ただ、制度の世界のしがらみが捨てられないことには少々むずかしい。頭の中をカラッポにして、なにもかも捨てて自然体になることが必要だ。
この本、代々忠さんの本なので
男女のsexについて書かれていますが
性の深淵に触れていて、なかなか面白いです。
では本日はこのへんで。
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