欲求は強いものではなく、普段の日常では忘れています。
なので何が何でもセックスを求めて積極的に、ということは思考でも実際の行動をとることもありません。
ではなくなったかと問われれば、そうではない、と書いたんです。
すれ違うような関係でも、一時情を結び相手の欲求を叶えてあげられる、という自身の存在の確認みたいなものかも知れません。
それでも、そんな気持ちとは裏腹に、意欲的に攻められると体は反応してしまう。それが性でしょうか。
愛(愛情)と書かれておりますが、愛とは何でしょう?愛と情は別なもののような気がします。一緒にすると余計曖昧になる気もします。
見返りを求めない、元々愛という感情は自身にある身勝手な感情かと思います。
それを向けられたからといって、相手もそういった感情を持たなければ、相手には何の関係もない。むしろ迷惑な場合も有り得る。
その場合、もちろん見返りなどはないので、それを求めること自体が間違いというか、単なる身勝手ということのなりませんか。
注ぎ続けるのは自己満足的な、これもまた単なる身勝手になるでしょう。
しかして、相手がそれに応じ、相手もまたそれを求めるのならば、それらは一変する。
仏教思想でも、愛を手放しに良いものとは言っていない。むしろ悪い感情に近いと思います。
キリスト教的な思想からでしょうか、愛だ愛だと叫ぶ者が居ますが、その人たちは愛に意味するものを本当に考えたことがあるのでしょうか?
英語圏(特にアメリカ)以外では、愛には幾つかの意味を持つ場合が多い様です。それは良い捉え方ばかりではありません。
わが国でも元々愛と訳した時点での誤解があるのかも知れません。
相手を求める微妙な関係、それは何かの信号を送り、送られることから始まるのでしょう。
それが人間のどの感覚を通じて信号を送るのか、だけなのではないでしょうか。
心といいますが、相手を求めるならば心を何らか方法で伝達しなければならないでしょう。
頭の想像妄想による性は、単なる自慰行為に繋がるだけであれば、それは他の者の存在という現実を超えている面があるきがします。
体の感覚は、そういった場合に効果的でかつ重要な信号手段で、体の快は精神的な快を誘発していくものだと、思っています。
男よりに体を戻す。
医師は男性ホルモン投与という治療法があるが、現状で心理面も含めて特に困ったこと、気にすることがない限り、その方法は勧めません、と言います。
特段気にする訳でもなく、生活に悪影響が出るほど困ることもないので、そのままにしています。
男性的な、男性ホルモンを誘発する運動でしょうか。その意味で筋トレーニングなどはしています。
性的な意味で男性に戻すなどということは考えたことがありません。
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